明治4年(1871年)7月14日明治政府は廃藩置県を断行し、旧藩を引き継いだ弘前県、黒石県、斗南県、七戸県、八戸県が成立、9月4日には松前の舘(たて)県をも合併、弘前県が誕生しました。

 9月5日弘前県大参事となった野田豁通(ひろみち・熊本藩)の進言により、同23日政府は、当時弘前藩の外港のひとつに過ぎなかった青森町に県庁を移転し、県名を青森県とすることを決定しました。

 12月1日、弘前藩の青森町奉行所が置かれていた御仮屋(おかりや)が県庁となり、青森県が成立しました。

 明治15年(1882年)1月4日、新しい庁舎が落成し、昭和20年の青森空襲で焼失するまで青森市のシンボルとなっていました。青森空襲の体験を福士重太郎県食料課長はその著書「事件とともに五十年 青森県大正・昭和秘話」(東奥日報社 1971年刊)の中で語っています。

「十時十分、空襲警報のサイレンが一斉にうなり出した。いよいよ来るものが来た、と覚悟をきめて県庁の指揮防空ごうに走った。この防空ごうは、県庁正門を入って西側につくった長さ十五メートル、幅三メートルの鉄筋コンクリート造りの、がんじょうなもので五〇人以上収容できるが、よごれた地下水が十五メートルぐらいたまっていた。金井元彦知事(現在兵庫県知事)、伊能芳雄内政部長、江花静経済第一部長、鈴木武経済第二部長ら幹部が続々集まって来た。
 私は防空ごうの上に立って西の空をにらんでいると、同十時三十分、巨大な銀翼を月光に照らされたB29一機が頭上を通過した直後、博労町方面の空から、打ち上げ花火の落下するときのようにキラキラ光るものが降下した。思わず防空ごうに向かって照明弾投下と叫んだ。そのとき、官舎に一人残して来た娘が危ないと思ったのですぐ官舎に走った。娘が中庭の防空ごうに隠れていたので、連れ出して指揮防空ごうにかけつけたところ、いつの間にか満員になって入れない。十メートルぐらい離れたところにある木造の防空ごうに娘を押し込んでから、指揮防空ごうの中に割って入り、監視窓から首を出して周辺を見ると、市内が大火になっていた。
B29が一分ぐらいの間隔で五百メートルぐらいの低空を飛んで行くが、なかなか県庁に投弾しない。油脂爆弾が投下されたのが、空襲開始後三十五分たった同十一時五分であった。爆弾が地上で爆裂し一面青い火の海となって、県庁と青森警察署が同時に燃え上がった。娘の入った防空ごうに行って見ると、全員脱出した後で、からっぽになっていた。この地獄から娘が無事に脱出してくれることを祈らずにおられなかった。
 防空ごうの中は次第に熱気を帯びごう内の泥水に防空ズキンを浸してもすぐ乾く。伊能部長が真っ先に脱出、続いて江花部長が脱出した。同十一時三十分、金井知事が、ここは危険になって来たから全員出ようと言い残して出て行った。最後に残ったのは、私を中心に十五人になった。残っては見たが防空ごうが熱くなり、呼吸が段々苦しくなったので、午前零時私を先頭に一丸となって飛び出し、二十メートルぐらい走ったが、煙と炎が路上にうず巻いて進むことができない。ごうに引き返し、熱気を帯びている防空ごうに泥水をかけ、庁舎の焼け落ちるのを待った。私の日記に火勢最高午前一時と書いてあるが、これは県庁周辺のことである。新庁舎と警察部庁舎が焼け落ちても古い本館だけは燃え続けている。やはり明治時代の代表的な建物はがんじょうに出来ていることをまざまざと見せつけられた。空襲が終わったのは二十九日午前零時十五分で、空襲時間が一時間四十五分であった。

(中略)

 二十九日午前四時、ようやく鎮火したので県会議事堂の屋上から市内を展望すると、上古川から浪打方面まで文字通りの焼け野原になっている。目の下の道路に五人の黒こげの死体があり、さらに常備消防の望楼のはしにつかまったまま一人の消防手か焼死、全く地獄そのままの惨状であった。
 この空襲について軍の発表は以下の適りであった。これを読んで感ずることは、一発の地上砲火も一機の迎撃機も送ることができなかった軍としては〈民防空の活動により鎮火せり〉と発表せざるを得なかった苦悩がよくうかがわれる。
    東北軍管区発表  七月二十九日
 南方基地よりと推定されるB29約百二十機は七月二十八日二十時三十分頃より福島県沖を北上、一部は平市付近を、主力は二十二時三十分頃より青森市周辺に対し焼夷弾攻撃を加えたる後、反転南下金華山付近を経て退去せり。

 平市付近及び青森市周辺に火災発生せるも民防空の活動により四時頃までに概ね鎮火せり。」(N.K)

※このコーナーは、かつて「青森今昔物語」に掲載されていたものの中から、ブログの更新が2014年以降ストップしていることもあり、主立ったものを関係者の承諾を得て、奏海HPに転載するものである。