明治6年(1873年)2月北海海開拓使は、外輪蒸気船「弘明丸」 で函館-大湊、函館-青森間の定期航路を開設しました。明治12年(1879年)6月この定期航路は、国内航路を独占していた三菱会社の経営となりましたが、明治15年(1882年)反三菱系の東京風帆船会社、北海道運輸会社、越中風帆船会社が合併して設立された共同運輸会社が、青函航路にも航路を開設しました。三菱と共同運輸の激しい旅客争奪競争は激しく、運賃の割引はもちろん、乗客に反物を贈呈したり、無料で乗客を運んだり、その採算を度外視したサービス競争が繰り広げられました。

 両社のエスカレーションする営業を危惧した明治政府は、明治18年(1885年)9月29日両社を合併させて日本郵船株式会社を設立させました。

 明治24年(1891年)9月1日、日本鉄道青森-上野駅間が全通。しかし当時日本郵船の連絡船桟橋は、駅から1.5キロメートルほど離れた、新浜町に置かれていました。また当時の桟橋は連絡船を横付けすることが出来ず、乗客はハシケや小蒸気艇に乗って、500メートルほど沖に投錨した船に乗り込んでいました。風雪の強い時には、海中に転落する事故もあったといいます。

 明治31年(1898年)11月、日本郵船は日本鉄道青森停車場構内に船入場と連絡待合所を完成させましたが、日本郵船による青函貨客の輸送実績実績が伸びると、今度は日本鉄道会社も会社自身の手によって青函航路の計画を立案、新造船2隻をイギリスのウイリアム デニー アンドブラザース造船所に発注します。明治39年(1906年)11月1日、鉄道国有法により日本鉄道は政府に買収され、注文中の連絡船も政府に引き継がれました。日本鉄道が発注した第一船比羅夫丸は明治41年3月7日、青森港を出港し、国鉄青函航路が開業しました。しかし、乗船客は依然として連絡船に乗るまでは蒸気艇が曳くハシケを使わなければなりませんでした。

 陸軍特別大演習が青森県下を中心に展開された大正4年(1915年)の6月23日、内務省は明治43年(1910年)の青森大火窮民救済事業として10ヵ年継続計画の青森港第一期築港に着手、大正12年(1923年)12月15日、航路開設から50年目にして一部完成した青森桟橋に初めて連絡船が横付けとなりました。(N.K)

※このコーナーは、かつて「青森今昔物語」に掲載されていたものの中から、ブログの更新が2014年以降ストップしていることもあり、主立ったものを関係者の承諾を得て、奏海HPに転載するものである。