明治41年(1908年)2月29日青森港に入港した青函連絡船比羅夫丸では、3月3日来賓80名を迎えて披露会が行われました。余興に一柳亭茶楽の落語、青森見番芸妓による「東北名物大黒舞」、青森芸妓申込方による寸劇「比羅夫丸乗合茶番」の余興の後、平舘までの試運転が行われました。

 3月6日夜には、青森市主催の比羅夫丸高等海員招待会が浜町の料亭「金森樓」で開かれ、市役所からは花火も打ち上げられました。

 そして3月7日午前10時、比羅夫丸は285名の旅客を乗せて函館への処女航海へと旅たち、鉄道連絡船の歴史が始まりました。。

 しかし、その航路は順調な船出というわけには行きませんでした。この日午後猛烈に発達した低気圧が津軽海峡を襲います。青森市内では19時ごろから猛吹雪となり、8日10時までに一尺八寸七分(約56センチ)という降雪に見舞われ、「市内の道路といふ道路ハニ尺乃至五尺の雪に埋もれ殆ど交通途絶といふ有様にて分けて市内浦町新町安方町栄町方面ハ雪ハ全く大人の腰を没し胸に及び町に出るにはあへぎあへぎ雪を漕がねばならぬ様な奇観を生」(明治41年3月9日付け東奥日報)じ、強風により青森-三厩間の電信柱30本も倒壊したといいます。このため、尻内(現・八戸)駅を出発した貨物列車が野辺地-乙供間で運転不能、これを救難するため青森を出た除雪列車も、野辺地-狩場沢間で立ち往生。除雪列車の救援に向かった2両の機関車も小湊で、さらにその機関車の救援列車まで立ち往生するありさまでした。
 
 奥羽線も大釈迦で運転不能となった列車列車を救援するため、青森を出た機関車2両がまた遭難してしまいます。

 8日0時折り返し青森に向かうはずだった比羅夫丸は出港を見合わせ、一日遅れで一等1名、二等4名、三等74名の乗客とともに漸く青森港に入港しました。そして折り返し9日定刻から50分遅れで出港した比羅夫丸乗客数は、奥州線、奥羽線が途絶したため二等10名、三等19名だったと記録されています。

 当時青森港には連絡船が着岸できるような桟橋はなく、沖合いに停泊する船まで一、二等客は小蒸汽艇で、三等客と荷物は屋根つきの艀によって運ばれていました。そのため、港内が時化になると、船までたどり着けない事態も多々発生したといいます。(N.K)

※このコーナーは、かつて「青森今昔物語」に掲載されていたものの中から、ブログの更新が2014年以降ストップしていることもあり、主立ったものを関係者の承諾を得て、奏海HPに転載するものである。