今年は立春を過ぎても積雪149cmという大雪である。更に、これに輪をかけて、新型コロナ禍のため人出が少ない青森市である。このような中にあって、冬季オリンピックが北京で開幕され、その実況中継に釘付けされ、自宅に籠っていることもあってか、殊更に街中では人影もまばらである。

 このような時に、奏海の会相馬さんからシゲ(小生のこと)を鼓舞する呼びかけ!が飛び込んできたのである。「昭和16(1941)年卒の青森中学の卒業アルバムを入手したので見ていると、これが某劇場の前で撮った写真があるが、どこの劇場であるか知らせて欲しい」というのである。早速電子メールで送られてきた写真を見ることになったが、それが戦前の通称「東宝劇場」(設立当時は、松竹劇場。場所は常光寺向かい付近)であったのです。しかもこれが鮮明な画像で、全く懐かしい限りであった。

昭和16(1941)年3月刊行の青森中学校卒業アルバム 写真左が映画館

 これがいつ撮られた写真であったか?であるが、すぐに周辺の看板から、昭和15年10月であることかった。上映中の映画「民族の祭典」有料招待映写会の文字が見られたからであった。また、別葉の写真からは、航空映画「燃ゆる大空」の文字も読み取れるのであった。

 ここで拙著「あおもり戦中(航空)映画ものがたり」から、この二つの映画のことについて引用することにする。

 昭和14年10月23日のみ、「民族の祭典」(ドイツ映画)上映、「有料試写会ご招待」となっていて、同時上映として文化映画「艦隊出動」、ニュース「オリンピック特報」となっている。そして翌24日からは航空映画「燃ゆる大空」、文化映画「艦隊出動」が11月4日までの上映となっているのである。その後も11月13日まで続映されているのである。当時のベルリンで開催されたオリンピック大会の人気ぶりが想像されて来るようである。そして、更にこの続編として翌年4月24日には、オリンピック記録映画「美の祭典」が月末まで上映されているのである。

 さて、拙著「あおもり“戦中(航空)映画”物語」には、オリンピック記録映画「民族の祭典」(86P)、航空映画「燃ゆる大空」(79P)に、以下のような記述となっているのである。
「燃ゆる大空」について
新町小学校の頃 

レコード「燃ゆる大空」の新聞広告

  航空映画「燃ゆる大空」;皇紀2600年記念の大作
 この航空映画は、皇紀・紀元2600年記念の一環として、陸軍省・航空本部協力の下で、日中戦争当時の帝国陸軍の実機947機や装備および現役空中勤務者らが撮影に参加していて、あの当時の最新鋭であった九七戦闘機や九七式重爆撃機などが大量に参加している。空中戦の場面に出現する国民革命軍の敵機には、旧式の九五式戦闘機をソビエト戦闘機イ15に見立てて出演している。(昭和15年10月24日~東宝上映)
シゲが一番記憶にあるのは、僚機が敵中に不時着したのを救出するシーンでシュッ、シュッと敵弾が乱れ飛ぶ中を強行着陸して救出するシーンであった。シゲには、鮮明な画像で九七戦闘機の実機そのものを間近に見られたのがよかったのである。

 この脚本が本県八戸出身の北村小松であったことは、このころから知っていたシゲであったが、殊更航空作家であったことからも憧れの人であった。北村小松のエピソードを知っている人には、彼が「乗り物狂」であったことは有名な話である。とにかくモダンな道具類が好きであったのである。松竹草創期の松竹キネマ研究所、或いは小山内薫・土方与志の築地小劇場に関わってシナリオや戯曲を書いていたが、本来この「新しいもの」好きの習癖から、ある時はカメラ、ある時は油絵、ある時はシナリオ、そして戯曲と。そして、ダンスもプロ級。撮影所で一番早く自動車を買ったのも彼であった。その自動車も、次々と新型と乗り換え、「ダットサン」から、とうとう英国の名車MGスポーツまで昇りつめ、更に飛行機マニアで、シゲは模型飛行機雑誌で彼が造る模型機が紹介されるのを楽しみにしていたものであった。何につけても「凝る」人であったわけである。この飛行機マニアであった北村小松であったから、飛行機を主題とした映画を書くことは不思議でも何でもないわけである。戦時中「少年航空兵」を書いて、少年たちを飛行少年に引っ張り込んだことになるわけである。
映画「燃ゆる大空」の新聞広告

 昭和15年(1940)の「海軍爆撃隊」(木村荘十二監督、東宝)、そして「燃ゆる大空」(阿部豊監督、東宝)の二つの航空映画の原作者が北村小松である。この阿部豊監督も、アメリカで撮影修行をして帰国したモダンな人物であった。こうして、二人の「新しさ」が映画的表現にモダニズムとして松竹現代劇に表現されることになった。トーキー映画第一作「マダムと女房」の脚本も北村小松の手になるものであった。こうして、二人の「新しさ」が映画的表現にモダニズムとして松竹現代劇に表現されることになった。東宝という会社は、この二人の出会いの場を作り、近代合理主義によるアメリカ的な経営を取り入れた映画会社として、国策映画にうまく協力して行くのであるが、戦後も特殊撮影を駆使した戦争映画を作り続けてきている。北村小松の「模型飛行機マニア」ぶりが、航空隊の活躍を見事に描く結果を招いたといっても過言ではないのである。しかし、この映画は飛行機への憧れ、空中戦の格好よさ、戦友同士の思いやり、国家のための滅私奉公をも描いているわけなので、正真正銘の国策映画であり、戦意高揚映画であることには違いないのである。然し、飛行少年であったシゲには、胸躍る映画であったことに変わりはなかった。主題歌は、作曲が山田耕作である。
(10月24日~東宝)
「燃ゆる大空」  作詞 佐藤惣之助 作曲 山田耕作

燃ゆる大空 気流だ雲だ
あがるぞ翔るぞ 疾風の如く
爆音正しく 航路を持して
輝く翼よ 光華と勢え
航空日本 空征くわれら
二、 機翼どよもす 嵐だ雨だ
燦くプロペラ 真っ先かけて
皇国に捧げる 雄々しき命
無敵の翼よ 溌剌挙がれ
闘志は尽きぬ 精鋭われら
三、 地上遥かに 南だ北だ      
攻むるも守るも 縦横無尽  
戦闘爆撃 第一線に       
降魔の翼よ 電波と奮え
東亜の空を 制するわれら
四、 空を征かん 希望だ道だ
七つの海原 大陸衝いて
文化を進むる 意気高らかに
金鵄のつばさよ 世界を凌げ
国威を担う 若人われら

映画「民族の祭典」の新聞広告
映画「美の祭典」の新聞広告

「民族の祭典」「美の祭典」について
新町国民学校在学中の頃
   映画「民族の祭典」「美の祭典」;伯林オリンピック記録映画
 東京オリンピックは、戦争で中止となり出来なかったが、その前のベルリン・オリンピックの記録映画である。「民族の祭典」は、上映前から大評判となって居た。何回かに分割されての上映で、シゲが観たのは第一部で、「陸上競技十六種」を中心とした内容であった。何といっても、この映画はリーフェンシュタールが総指揮を執った芸術的画像の構成となって居て、シゲはこれまで体験したことがなかった荘重な雰囲気とエネルギッシュな迫力感ある画面を痛切に感じていた。カメラのアングルやら焦点範囲の深さというか、兎に角ドイツ映画は、画面の深みが異なることに圧倒されたのであった。専門的な言葉で言うならば、焦点深度があるというか?深いというか?画面のリアルさ日本映画にはないものであった。

 日本選手団の入場は、戦闘帽を被った背丈の小さい見劣りのする体格で国防服の選手たちの一団であった。このあたりの各国選手団に比べて全く貧弱さを隠し切れないものであった。この当時の日本国民の制服?は、このカーキ色の国民服というシンプルなデザインの服装に統一されていたわけである。壇上に立ったヒットラー総統が、颯爽と右腕を斜めに突き出す、あのカッコイイ姿勢で立っていることで、場内のドイツ国民が熱狂し、この大会が盛り上がったようであった。ナチス政権をアピールする絶好のプロパガンダ・オリンピック大会となって居た。鍵十字のナチス国旗を掲げて登場する軍服姿のドイツ選手団がひと際目立った存在であったのである。

 10月23日のみの有料試写会が開催されたが、札止めとなるほどの盛況であったが、その後の一般公開日の日曜日であったと思うが、学友たちと連れ立って東宝映画劇場で観たのであった。学校でも、この映画での日本人選手の活躍が話題となって居て、東京オリンピックが待ち遠しいところであった。まもなく、この続編である「美の祭典」も上映されていたが、まもなくこの楽しみも戦争のため中止となってしまうのである。
(11月5日~東宝上映)

 シゲにとって、「東宝劇場」は駅前「常設館」に次いで常連客であった。本邦初の画期的な航空映画「燃ゆる大空」も大好きであったが、それ以上にトシおばさんのお付き合いで恋愛映画(洋画)に通うのも多かったのである。「子供見られません」の立て札があるところを、切符売り場でこの「子供入場禁止」を強引にねじ伏せ説得し、大人料金を支払って観た映画も数知れなかったのである。この中で、当時は「支那」と呼ばれた中国を舞台とした恋愛映画「支那の夜」「蘇州夜曲」「白蘭の歌」があるが、当時人気絶頂の長谷川一夫・李香蘭の名コンビのシリーズものであった。林長次郎から改名した長谷川一夫、これは戦後分かったことだが、日本人から中国名の女優として登場した李香蘭(日本語の流暢な中国女優と思っていたが)は、戦後の本名に戻ったのが「山口淑子」であった。戦後、戦犯として瀬戸際まで行ったが、見事に彫刻家ノグチ・イサムの奥様に返り咲き、その後参議院議員にまで上り詰めて活躍しているのである。長次郎ファンであった、母は子育てに追われて映画には行けずにいたが、母の代理?といった具合に映画館通いとなったのである。実は、トシ叔母さんは大変な洋画フアン(英文の手紙のやり取りをしていたが)で、今でも記憶に残っているのが、「格子なき牢獄」(仏)、「舞踏会の手帳」(仏)「ノートルダムのせむし男」(米)、「ハリケーン」(米)などは、劇場の「子供見られません」の禁止網をくぐりぬけて、子供ながらの貴重な!鑑賞となったのである。

 この頃になると、芸人の名前も「米英語禁止」の波により、例えば、淡谷のり子にその才能を認められ、西条八十にも出会って、人気絶頂であったアメリカ歌曲を絶妙なムードで歌唱した歌手デック・ミネ(本名三根徳一)を三根耕一となり、中国・上海あたりで歌っていたのである。シゲにとって、東宝劇場は何といっても劇場前の「東宝ストア」が観劇後の楽しみであった。劇場そのものも東北一と云われていた、当時としてはモダンで大きなビルであったが、劇場前にあった「東宝ストア」も、一階はいろんな種類のお菓子がフンダンにあったし、二階のレストランには大好きな半球型のアイスクリームが銀色の容器に入れられてシゲを待っていたからであった。トシ叔母さんも、辛抱強く駄々もせず洋画の鑑賞に付き合ってくれたシゲへの代償?として、このアイスクリームのご馳走を忘れはしなかったのである。このようなルンルン気分の時間も、まもなく「洋画鑑賞禁止」となり、夢の彼方へ消えてゆくのである。戦争の拡大がすべての「楽しみ」を奪い去っていったのである。(大柳繁造:青森県三沢航空科学館館長)

※青森市内で戦前に上映された映画のことであれば、大柳繁造さんの右に出る人はいません。早速、1941年の青森中学校の卒業アルバムにあった映画館を調査していただきました。短時間で400字詰め原稿用紙で10枚ほどを書き上げてくれました。80歳代後半の方とは思えないほどの記憶力と活動力にびっくりです。日々、新しいことに挑戦し、原稿を書きまくっていれば、脳が衰えることはないと思わせる方でした。詳細な調査に元ずく原稿に深謝です。