主に青森市の古写真(絵葉書)や地図などを展示している、青森まちかど歴史の庵「奏海(かなみ)」の公式ホームページです。

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【あおもりなつかし写真帖】第10回 「昭和初期の子ども エンツコに赤ちゃん」

この写真は、昭和4,5年頃に青森市油川で撮影されたものです。写りがしっかりしているところから、専門の写真屋さんなどに頼んだもののように思えます。子供たちの服装からして、一般よりは少し富裕な家庭の子供たちのように見えます。 …

【伝えたい記憶】第8回 戦争「空襲の次の日(母の兄、正夫の話)」

空襲の日、母の兄は二度目の兵役から生きて戻って家にいたが、野内村も石油タンクがあるために爆撃をされたので、家で死ねれば本望だと思って覚悟を決めたそうだ。でも兄弟達を安全な所に移動させなくてはならないので、家を離れることに …

【あおもりなつかし写真帖】第9回 「昭和40年代の青森ねぶた 昼運行も大勢の跳人」(2015年7月31日)

青森ねぶた祭が現在のように全日程合同運行となったのは、昭和43年(1968年)からです。コースも国道・橋本〜古川間から新町へというものでした。また、青森県庁前の歩道に有料観覧席が設置されたのもこの年からです。 上の写真は …

【伝えたい記憶】第7回 戦争「気がつけば野苺の中」

敵の飛行機が飛び去るのを、その場所で小一時間位隠れて過ごした。セツさんは、「テルさん、まだ出ちや駄目だよ。」と言って私を引き止めるようにしてしがみ付いていた。暫くすると小鳥の声がして来た、風のざわめきも聞こえて来た。私は …

【あおもりなつかし写真帖】第8回「攻撃受ける青函連絡船 乗組員131人が死亡」(2015年7月24日) 

「青森空襲を記録する会」が活動を始めたのは、空襲から35年経過した昭和55(1980)年のことでした。第1回青森空襲展を昭和56年7月、青森市の「五拾壱番館」で開催するにあたり、在日アメリカ大使館へ、青森空襲の写真が保管 …

【伝えたい記憶】第6回 戦争「戦闘機の操縦士の顔」

私たちを襲った戦闘機は暫く上空を飛んでいたが、間もなくその影は無くなり、草むらの陰でセツさんとやっと顔を見合わせる事が出来た。セツさんはがたがた震えていたが、私の顔を見ると急に泣き出して抱きついて来た。私は大きく息を4い …

【あおもりなつかし写真帖】第7回「49年前のねぶた 歴代3名人の作品」(2015年7月10日)

このカラー絵葉書は昭和41年(1966年)8月7日青森ねぶた祭 最終日、昼の運行七日日(なぬかび)の様子です。この頃は、8月3日から7日までの開催で3日・4日は子供ねぶた、大型ねぶたの合同運行は5日・6日・7日に限られ、 …

【伝えたい記憶】第5回 戦争「家路の途中」

空襲の夜の夜勤が明け、家路に就こうと思ったが、果たして実家は残っているのだろうかと不安になった。でもここに居ても危ないし、とにかく実家のある野内村に帰ろうと思い、焼野原の外に出ると、同僚のセツさんが慌てて後を追って来て、 …

【あおもりなつかし写真帖】第6回「禁じられた避難と防空法 」(2015年6月26日)

太平洋戦争中の焼夷弾攻撃への消火方法は、バケツリレーで水や砂をかける、竹箒(たけぼうき)で火の粉をたたくなどでした。しかし、アメリカ空軍大型爆撃機B29の空襲には全く役に立たず、逆に犠牲者数を多くしました。昭和20(19 …

【伝えたい記憶】第4回 戦争「青森空襲の次の日」

  青森電務区の夜勤だった母は、その夜一睡も出来ずに、朝日の中に煙る無残な青森市の焼跡を見る事になった。 先ずはうっすらと明るくなりかけた東の空に、そこからは山頂しか見えなかった東岳が麓まで見え、続いて見えるは …

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