主に青森市の古写真(絵葉書)や地図などを展示している、青森まちかど歴史の庵「奏海(かなみ)」の公式ホームページです。

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【青森空襲紙芝居作成プロジェクト】第4回 叔母さんのお願い

それを聞いた市民たちは仕方なく帰る事にし、一緒に疎開をした叔母さんも「青森に帰らければ子供たちのミルクの配給券がもらえなくなるので、一緒に子供たちの面倒を見ながら青森に帰ってくれないか。」と私に頼んで来ました。

【タイムトラベルあおもり】09.青森ねぶたの伝統って?

青森が世界に誇る「青森ねぶた祭」。祭に登場する“ねぶた”は、日中の英雄豪傑の人形燈籠とされることが、現在では一般的です。青森のねぶたで表現される題材は、ある程度幅があるものとされています。事実、弘前のねぷたでは、三国志や …

【青森空襲紙芝居作成プロジェクト】第3回 知事の怒り

その頃から青森市の住民達はいつ青森市が空襲を受けるのか気が気でなくなり、大人でも田舎に疎開をする人たちが多くなり、青森市の人口が一時的に少なくなりましたので、青森県で一番権力のある知事と言う役人が、「街を捨てる気か、青森 …

【青森空襲紙芝居作成プロジェクト】第2回 木造村へ疎開

戦争は1945年8月15日に日本が負けを認めて終わったわけですが、その前から日本の色々な都市が爆撃を受けており、いよいよ青森も危ないのではないかと思われておりましたので、小学校では入学前でも随時疎開を認め、高学年の5・6 …

【青森空襲紙芝居作成プロジェクト】第1回 表紙

「青森市寺町で空襲に遭いました」  富岡セツ 今から70数年前に、日本は国際連合国の主にアメリカと戦争をしておりました。戦争とは国と国の喧嘩ですから、国の方針を決める政治家たちが起こした訳ですが、その為に兵隊として戦死さ …

【あおもりなつかし写真帖】第15回 「青森高のクロマツ」

青森市桜川に広大なキャンパスを誇る青森高校。校門を入ると右側に2本のクロマツが存在感を見せています。向って左側が「三中の松」(写真上)と親しまれ115年前の創立時から青高生を見守っています。 もちろん初めからここにあった …

【伝えたい記憶】第23回 戦争「疎開先から見た青森空襲(Kさんの話)」

東岳村(現在の宮田・馬屋尻・矢田・滝沢地区)に疎開をしており、そこから青森空襲の惨状を見てしまいました。私は6歳だったけど、夢でも見ているのかと思って、自分の頬っぺたをつねってみたから、現実だったんだよね。 その日は蒸し …

【伝えたい記憶】第22回 戦争「幸畑村まで逃げてきた人たち(工藤ツヤさんの話)」

青森空襲は思い出したくなくても思い出される事だよ。私は10歳だったけど、青森が焼けるのをはじめっから見てしまったよ。きれいな線香花火が空いっぱいに広がってさ、それがゆっくりと落ちて行った所から火の手が上がったのさ。 まず …

【伝えたい記憶】第21回 戦争「野内村當古寺も攻撃される(秋庭正美さんの話)」

太平洋戦争当時、野内村には今でもありますが、石油の貯蔵タンクか何基も建っておりましたので、敵の攻撃目標とされて、村では唯一被害を受けた場所じゃないのかな。 空襲警報が発令されると、当時8歳だった母の弟は両親と姉たちと一緒 …

【伝えたい記憶】第20回 戦争「古川跨線橋から浪打小学校が見えた(棟方精子さんの話)」

私は女学生で、大湊に勤労奉仕隊でも行ったことがあるから、その当時の事はよく覚えていますよ。 あの青森空襲の日は、空襲警報が鳴ってB-29が焼夷弾を落としてから、青森から平舘まで35キロ、家族皆で夜通し歩いて逃げましたよ。 …

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