平成27年4月から平成28年3月まで25回にわたって、東奥日報社の金曜日(毎月第2・4)夕刊に青森まちかど歴史の庵「奏海」の会会員が中心になって、「あおもりなつかし写真帖」と題し連載したものです。


2階建ての軒先から垂れ下がる氷柱群と屋根を覆う厚い雪。洒落た洋風ドアを設えた玄関。開け放たれた玄関前に、急ぎ置かれたと思われる自転車。この 写真 は昭和十四(1939)年一月九日、東奥日報社に勤務していた平井義雄さんが撮影した青森市新町にあった本社社屋風景で、ご遺族の元で大事に保管されてい たものです。撮影前年には国家総動員法が公布され、日本が国をあげて戦争へと突き進む中、東奥日報社は総合雑誌「月刊東奥」創刊を企画しています。

東奥日報社本社は当初、旧青森県庁北側のメーンストリートに建っていましたが、明治四十三(1910)年五月の青森大火で焼失後、弘前の堀江組によって 再建された洋館風の洒落た建物でした。堀江組の創業者は名棟梁と言われた堀江佐吉で、弟子たちと共に和洋折衷建築物を青森県内に数多く残しています。

そして、昭和二十(1945)年七月二十八日夜の青森空襲では社屋が焼失しただけでなく、消火に駆け付けた社員六名が殉職した中、新聞の発行が途絶える ことはありませんでした。空襲の翌日は、弘前で号外を印刷・発行し、更に秋田魁新報社、新岩手日報社、河北新報社の協力を得て、新聞社としての使命を果た し続けました。このように、洋館風玄関をもった東奥日報社社屋がもし残っていれば、青森市内における貴重な歴史的建造物の一つであったに違いありません。 また、青森空襲を乗り越え、70数年ぶりに人目に触れるこの写真も、貴重な「過去への覗き窓」と言えます。

 社屋は問屋町に移転し、現在は駐車場となっている。

(青森まちかど歴史の庵「奏海」庵主・今村修)