今月はじめの地元紙報道によると、建物の一部について耐震性能が不足していることから、休館していた青森県立郷土館が引き続き来年度も休館となりました。このようなことから、来年度は青森市内に標準形態の公立博物館が開館していないという非常事態となりそうです。

そこで、奏海の会では急遽、県民・市民にとっての博物館とは何かを皆様とともに考えてみようと思い、「博物館と市民」と題したシンポジウムを開催することとしました。2021年5月16日(日)14時から16時まで、青森県立図書館4階にある集会室で50名定員で行います。

それに先立ち、多くの皆様方(青森県外も可)から、「青森県立郷土館の将来像について」のご意見を募集し、このページでご紹介したいと思います。匿名あるいは実名でも可能です。ご意見のある方は、aomorikanami@gmail.com までテキストデータで送付してください。多くの方々からのご意見をお待ちしています。

No.16「青森県立郷土館は休館中ではあるが、開館以来、寄贈・寄託資料や発掘調査による出土品など多数所蔵しているはずである。また調査報告書は、多数公刊されている。これらは適切に展示・収納されるべきであるが、開館当時と今とではその条件がかなり違っている。
 まず一番に考慮すべきことは、日光や外気から如何に資料を守るかということである。資料はいずれも貴重なものであり、長く保存すべきものなので、収蔵庫も展示室もその条件を満たしていなければならないが、建物全体の構造にも関係する。外気と接する壁面は頑丈に造られていてもこれだけでは不十分で、内側に廊下を造るなど空気層により展示室や収蔵庫に外気が入らないようにする必要がある。最近建設された博物館は、大概その様になっているようである。
 世界の中の青森県という支店から見た場合、いろいろな知識が必要なので、それを満足させることができる博物館がないものかと思う。自然の知識だけでなく、自然と人間の生活、発掘調査でわかる人々の歴史と文献でわかる歴史というようにグローバルな展示が必要なのではないかと思う。
 一つの提案として、名称は「青森県立博物館」とし、本館と分館に分け、本館は新築して自然・考古・歴史の資料展示・収蔵することとして、現在の建物は分館として民俗・産業の資料展示・収蔵することはどうであろう。
 民俗資料は大型のものが多く、また収集資料も多数あるということである。広い収蔵庫と広い展示スペースが必要ではないかと思われる。産業部門では開設以来の研究資料があると思うので、それを参考に「りんご」だけでなく、色々な生産物や工業関係資料の展示が必要である。」(一青森市民)

No.15「当たり前のようでよく分からないことは私たちの周りに沢山あります。雪深い悪いところに住んでいるけどなぜ? 県内にはお城がいくつもあるけどどんな人が住んでいたの? 北前船はどこから何を運んできたの? 津軽塗はいつからなぜあの模様なの?リンゴ王国・・それっていつから、誰が始めたの? etc.このような疑問に答えるためには歴史を遡り知ることが必要です。それはまた今の私たちを知ること、そして未来を想定することに繋がります。
 例えばリンゴの木を初めて植えた頃のことを調べると現在との違いが分かります。その違いは、ここまで時代背景・地域・子候など色々な事柄や多くの人が関わってきた結果です。今後の事を考える上で重要な手掛かりになります。
 縄文時代、三内丸山に暮らしていた人たちのことは少し知られるようになりましたが、その暮らしぶりはどのようなものだったのでしょうか。季節の変化、特に寒暖差・雨や雪と衣服、そして食べるものなど、当時のことを知れば知るほど今の暮らしのありがたさに気がつきます。弥生時代には青森でも米を作っていたようです。田圃はどうやって耕作していたのでしょう、そもそも田圃だったのか。脱穀はどうしていたか、煮炊きは、味は・・・。
 縄文以前の青森にはゾウもいたようです。とすればどんな季候だったのか。このように時間軸を永くしてみると気候の変化が分かり、最近話題になる地球温暖化や異常気象もつい最近のことと気付きます。このまま温暖化が続けば、今世紀末にはリンゴが作れなくなるという話も冗談とはいえなくなると言うことです。
 私たちの今そして今後を考える時、現在の有り様はどのようにして出来てきたのか過去を知り見つめ直す事は欠かせません。歴史に疑問はつきものです。それだけに幅広い分野で専門の知見を持った人たちが調査研究し成果を発表していくことが必要なのです。 
 青森県立郷土館のミッションは大きく2つ有り
・青森県の歴史についての調査・収集・研究・収集資料の活用と調査研究の成果発表(常設展、特別展、報告書、資料集などを含む)
つまり「歴史を遡ることにより、様々な時代の様々な事象が今の私たちに結びつくことを知り、そこから未来に繋げて行く」ための組織と施設と位置づけられます。先が見えにくい現在こそ、今後を考える重要な手立てとなる県立郷土館の活動が停滞すること無く更なる活用が期待されます。(青森市在住/三上 伸)」

No.14「青森県立郷土館が今年度も休館を継続するということを知り大変残念に思います。新聞報道によれば、建物の老朽化による改修か建替えのためだそうです。いずれにせよ、しばらくは企画展示ができなくなるのでしょうが、できれば他の場所を借りるかしてでも、小規模の企画展などを開催して欲しいと希望します。これまで何度か足を運んで、近場の郷土館に親しみを感じてきたものとして、可能な限り早期の再館を願っています。(一青森市民)

No.13「転勤でさいたま市、静岡市、船橋市と移動し、青森市に3年おりました。その間何度も子供と足を運びました。他県と比べましても、とりわけ青森市については子供や生涯に渡って学びを続けるための施設が少ないと感じておりました。三内丸山、小牧野、と縄文遺跡はかなり充実しましたが、それ以降の資料館として必ず残さねばならないものと感じております。
知識、そしてを伝える場所、物は散逸してしまっては後世に繋がりません。その重要さは市民だけでなく、行政として守らねばなりません。知を守ることは、即効性のある何かではないかもしれません。守ることに、知ることに、知ろうとすることを支えていくことが行政や知識の館としての使命ではないかと考えます。
新しい施設を作るのも一案ではありますが、果たしてその予算が今後確保できるのでしょうか。そことの兼ね合い、企業からの寄付などあらゆる手段を考えていくべきと考えます。また、デジタルによるアーカイブ、参加型イベントなど行ってはどうでしょうか。いま高校生のかたなどは、最近リニューアルされた民俗のエリアなど体験していないと思うのです。丁寧で興味深い展示だと感じています。
設備の古さは問題です。そこはなんとかしたほうが良いと思いますが、数十年後を見据えた計画をまず作ってから、専門家も交えながら丁寧な議論をしていってほしいと感じます。」(元青森市民)

No.12「青森県唯一の総合博物館である青森県立郷土館は、昭和48年の開館以来、50年になろうとしている。このため、施設の老朽化(雨漏り、冷房施設の故障等)に伴う改修工事が行われ、たびたび休館を余儀なくされてきた。そして、令和2年になって、耐震基準を満たしていないことが判明したため、令和3年度は休館するとの新聞報道である。このため、総合博物館としての機能はほとんど果たしていない状況であろう。
 郷土館については、これまで、博物館施設としての不十分な点(展示室・図書研究室・収蔵庫・会議室・講堂・駐車場等がない等)や採光状の問題(自然光が直接当たる)、さらに立地環境の問題(繁華街にある、海岸部にあって津波被害を受けやすいなど)が指摘されている。このなかで、収蔵庫については、現在は各地の廃校の空き教室などが使われるなどさまざまな課題を抱えており、他の東北6県の施設に比べて見劣り感がするのは否めない。
 社会教育施設であり、文化の保存・発信施設・研究施設等の博物館の有用性・必要性については、あえて言うまでもないが、今度、「北海道・北東北の縄文遺跡群」の世界遺産登録後には、本県を訪れる観光客がいっそう増加することが予想される。このような状況のなかで、本県を紹介し、理解してもらう、本県の顔となる施設が、今のような現状であり、新県立博物館の建設を望む声が多い。
 しかし、新博物館についての話は、議会や新聞報道からは聞こえてこない。陸奥湾や八甲田山など自然環境に恵まれた立地のなかに、新たな博物館施設の建設を考えるべき時期に来ているのではないか。」(一青森市民)

No.11「私が小学校4、5年生の頃、兄貴が休みになるとよく近郊の山へ連れられて行った。山の中に入ると、よくせせらぎの音を耳にする。すると裸足で川に入り「川蟹」や「ざり蟹」などをとって遊んだ記憶がある。
 ある時、川底の砂の中から黒い小石を拾った。ただの石ではなく三角錐のような石を削ったような痕があり、面白い石だなァと思った。兄貴はこれァまぎれもなくヤジリだねーといって持ち帰った。その頃はヤジリのことなどわからなかったが、大人になってようやく貴重なものだと知る事ができた。これがきっかけで石器や土器に興味を持つようになった。
 昭和48年(1973)、青森県は明治百年を記念して、寄贈された旧青森銀行本店の土地建物を利用して「総合博物館・郷土館」を建設した。三方海に囲まれた青森県の姿を考古、自然、歴史、民族、産業にわたる資料を、常設展示することで青森県のこれまでの姿を知ることができ、青森県の明日を考える場になると期待された。
 郷土館は第一展示室から第六展示室まであり青森県の先史文化や庶民の暮らしなど見応えのある内容の展示品があふれている。まだまだ展示されないものがいっぱいあると聞いている。今の郷土館は狭くて思い切りの展示が出来ないのではないかと思います。農具にしても実験できるスペースが欲しいし、生活用品物に自由にさわれるようなコーナーがも っともっとあってもよいのではないかと思います。」(青森市在住/いしだ ただし)

No.10「今高校生の私の娘は、小学校中学年の時に学校の学習で青森県立郷土館へ行ったことがあります。青森市内の子供たちは、この様に行く機会があり、その存在を知っていると思います。娘に、その時の事で何か記憶に残っている?と聞くと、特に覚えていないとの悲しい返答が、、、。やはり1度行ったっきりでは、余程興味を惹かれる物が無い限り、何も残らないのだと思いました。
 私の様に子供の頃は平内で育った為、郷土館は大人になってから行った事があるという人も居ると思います。何かのきっかけが無ければ郷土館に行こう!とは中々思わないのではないでしょうか?私は、講師を招いてテーマに沿った話を聞く土曜セミナーや、夏休みなどに親子を対象とした浮世絵作りなどの体験型イベントに参加したことがあります。
 土曜セミナーでは、余り質問等は無く静かなものでした。時間の尺もあると思うのですが、それではつまらないので、学校の授業で先生が生徒を指名するように、セミナーの所々で参加者を無作為に指名し、意見等を発表してもらったりすれば面白いかなと思いました。
 体験型イベントの時は、和気藹々としたとても楽しい雰囲気でした。作品が完成した後にでも、その時代や物に関連した展示ブースをイベント参加者に見学させたりできれば、より知識が結び付きやすいかもと思いました。無関心ではなく無知なだけであって、この様なイベントが沢山あればきっかけとして子供たちは少しずつでも知識を増やしていくのではないかと思います。
 子供時代は、何でも吸収できるのに令和3年度も臨時休館ということで、その機会が失われるのはとても残念です。青森市の歴史を含めた展示等もされれば、子供たちは自分の生まれたこの青森市の歩みを知る事によって愛着が湧き、郷土を愛する心を持った良い人材となり、それが青森市の発展に繋がるのではないでしょうか?この様な役割を持った充実した博物館が出来れば素晴らしいのにと思います。」(青森市在住/野澤 望)

No.9『青森市民の間で、「青森市には歴史がない。空襲でみんな無くなった。」「弘前市には、お城の他にも歴史的建物が数多くある。」という会話を耳にすることがあります。10歳から青森市民の私も、そんな話を聞かされ、そう思い込んでいました。十数年前、県立郷土館の職員となり、郷土青森市の調査を通して分かりました。青森市に歴史がないのではなく、市民の多くは、単に歴史を大事にしてこなかっただけなんだと。私もその1人だったので偉そうにいえませんが。
 その後、高校で地理教師をしながら、生徒の郷土研究を指導する際に、青森市立の博物館がなかったので、自分が集めた資料で指導しました。つまり、青森市民が青森市の郷土研究をする場所は、県立郷土館しかないのです。しかも県立であるため、青森市の資料が常設展で展示されている状況ではないのです。その結果が、冒頭の青森市民の会話になっているというのは、私の思い込みでしょうか。
 青森市にも歴史はあります。戦前には仙台に次いで東北で2番目の人口だったのです。北海道への物資を供給するなど、橋渡しの重要な都市だったのです。古い史跡・建物も、戦災で多くが失われたものの、残ったものもある程度あったのです。しかしせっかく残ったものも、個人や企業で維持する困難さから、少しずつ失われ、今ではほとんで無くなってしまったのです。郷土の歴史や事象が学べなければ、郷土の貴重さや誇りも、市民でさえ失ってしまいます。今こそ青森市に、本当の青森市の事を学べる博物館を作るべきではないでしょうか。セントラルパークの有効活用の一つに加えてもらえないものでしょうか。』(一青森県民)

No.8「県立の博物館ですから、何も青森市にある必要はありません。新設か改築かの議論はそこからではないでしょうか。弘前市や八戸市のように、青森市は青森市の博物館を作ればよい。青森市が県庁所在地であるからといって青森市への設置が前提となるのは好ましくないと思います。県立博物館は、津軽だの南部だのにとらわれず、また歴史偏重ではなく、県民が等しく学び、知りたいことがあれば気軽に問い合わせができ、子どもたちが心から楽しめる博物館であってほしいです。今の郷土館は化石とか動植物の展示が少ないと思います。特別展は博物館の華ですが、博物館の実力は常設展にこそ現れます。展示替えをもう少し短いスパンで行うこと、博物館独自で学芸員を採用することは必須です。」(学芸員資格を持つ青森市民)

No.7「施設の一部の耐震性能が不足している事実は見逃せないことであると思います。今後可能性がある大きな震災や、津波があれば浸水すると予測されるのであれば休館はやむを得ず、建て替えや移転も検討すべきであると考えます。しかしながら、青森の歴史を伝えて行くことはとても大切ですし、歴史ある建造物を全て無くすことは惜しいと思います。三内丸山遺跡との連携もあるようですし、世界遺産登録を見込んでいる最中で困難かもしれませんが、展示館の類は集客力のある三内丸山遺跡や県立美術館の近辺にまとまっていればよりお客様が入りやすい展示が出来るのではないでしょうか。例えば建物を取り壊すことになったとしても、壁の一部を残して展示しつつ「県立郷土館の歴史」として最初の企画展を開催するなども考えられます。数々の歴史的展示物、青森空襲の事実を伝える大切さなどは今後も残していただきたいです。耐震性だけはどうしても避けられない課題であると思いますが、インスタグラムやツイッターなどのSNS発信にも尽力しているようですし、是非より多くの市民県民に郷土館の存在や企画をアピールする方法を探って頑張っていただきたいと思います。」(青森市在住・60代男性)

No.6 ●別地点に移転新築する ●展示品を青森市とそれ以外を分離し、県内全般だけを常設展示する→分離した分は、青森市の展示へ ●ホームページの更なる充実を図る ●月1回位のペースで、「市町村アピールデー」を開催する ●「私の・我が家の逸品」特集を企画する(青森市民)

No.5「郷土館の修復に関連して思うことーー私が弘前大学に通っていた頃に、青森県立郷土館ができたのだと記憶しています。それから五十年程も経ったようですね。青森銀行からの建物の寄贈ということで、当時は市街地の中に博物館が建つので期待と不安がありました。それというのも、今までの埋蔵文化財を始めとする各種文化財を収納するスペースが小さすぎることと、見学にいらっしゃる方々の利便性から考えると車社会の現在であれば、駐車スペースがあまりにも小さすぎて県内各小中学校の社会科見学には不向きな面があります。また、博物館等に勤めている友人からは、「郷土館」という名前を県レベルの博物館で使っているところは少ないので「青森県の郷土館の中味もあまり期待できそうにない気がする。そして小さな町や村の郷土資料館のようなイメージ・・・」ということをいわれたことがあります。もちろん、バスを用いて県都青森にくるのであれば、広い場所を確保している「三内丸山遺跡」のほうに行くと思います。青森県立郷土館ができて、数年で収納スペースが限界にきたはずです。

 私は、これからの郷土館の発展性を考えた場合、現在の場所での再構築を考えるよりも、青森市の中央で例えば、青森県立図書館等に近接するような場所に新しく造り、さらに将来に対する発展的な名称を付けて「県民」を呼び寄せられることのできる施設に生まれ変わらせたらいかがでしょうか。例えば、「青い青い県立博物館」―青森を代表する縄文時代早期の遺跡から前期の三内丸山遺跡等海水面が5m位上昇し、内陸部に海が侵入してきた頃でした。気候は今の千葉県のように温暖で、人々はどの地域よりも恵まれた環境下の中で航海技術を高め、北海道を始めとする他の地域は交流の場でした。舟や着物、各種の道具を作る技術は、言語を持たなければなりたちません。私たちの先祖はいち早く言葉を用いて、多くの仲間をつくっていくことのできた人たちです。それが、青森という県名を持ち、未来にはばたくことのできる誇りを感じことのできることを祈りたいものです。青森県立図書館の周辺は大昔の海の中にあります。たくさんの人たちが楽しんで学習できることを祈りたいと思います。県都にふさわしいような展示と研究ができるような施設にしていくことが望まれてくると思います。東北の北海道をつないで縄文遺跡群の世界遺産を目指している本州側の旗振り県でもあります。

 ところで、青森県・青森市の名前に出てくる、「青森―あおもり」はどこから来たのか知っていますか。今の青森に「湊」が造られた1624年(寛永元)に弘前藩第2代藩主・津軽信牧が開港場として建設以来発達した外ケ浜(陸奥湾内)の港町です。17世紀前半の頃に海から見えた景色として、青い森があったとか、青森山という小山があったという説話が残っていますが、湊を造る際に削ってなくなってしまったという話です。しかし、削ってなくなるような小さな山には地名はつかないし、長い間地名として残っていることもありません。東北地方に数多く残っているアイヌ語地名での解釈の方が、真実性があります。一つはアウン・モィー陸奥湾の奥に入り込んでいる入り江ということ。もう一つはア・ウン・モシリー隣り・の・国(沙流地方の人たちが青森を呼ぶ言葉)。この二つとも、視覚的に湾の内・外を往来する当時の人たちの感覚にあいます。縄文時代から交流してきた大切な隣人です。三内丸山遺跡等の大きな遺跡を抱える青森ですので大昔から地名があるはずであり、一つ目の地名が最もふさわしいと思います。「津刈―ツカリ」津軽―ツガルと同じ当て字の一つです。この名前は、たくさんあるツガルの当て字の中で、日本書紀に登場するものです。津軽海峡のツガルはこの読みが「ツカリ」であったとすると、ツ(古くは海)・トカリ(~の手前)→ト・トカリがフランス語のようにリェゾンし、トが省略されてト(ト)カリ→トカリ→ツガルと変化したのだと思います。その意味は「海の手前」ということであり、海峡を目の前に北海道を臨む青森平野、津軽平野を指す地名だと思います。

 余分な事まで書いたようですが、青森の新しい建物となる「新郷土館」は、世界の人たちが日本にいらっしゃるときに、東北・青森・北海道を知っていただくいい機会にする建物となってほしいと思います。」(八戸市在住/杉山武)

No.4「青森の歴史を誰でも気軽に学び知る事が出来る様に敷居が高くない様にして訪れる事が出来る施設なら集客力上がるのではと思います。お隣盛岡にある先人記念館の様に、青森ゆかりの人を紹介したりするのも良いかもですね。」(元青森県民)

No.3「開館して約50年、中身の全面的なリニューアルが必要ではと思います。建物(旧第五十九銀行)に関しては青森空襲の遺物なので可能でしたら残して欲しいです。」(元青森県民)

No.2「一児の父親として考える。子供に、青森県全体の歴史をどこで教えればいいのか。残念ながら、いま、そういう博物館や資料館は思いあたらない。学んでほしいことはたくさんあるのに。こうした点をこれまで担ってきた県立郷土館が、耐震性の問題から現在、休館が余儀なくされていることは非常に残念である。
 これから郷土館がどういう形で運営されるのかは、次第にあきらかになっていくと思う。そのときに、ぜひとも受け継いでほしいのが、郷土館の入り口に掲げられた設立趣旨である。長いが引用させていただく。
 「ふるさとの 過去を語り現在を考え 未来を展望する そこにひらく夢と希望 何千年のむかしから わたしたちの先人は 匂いゆたかな郷土文化を つくりつづけてきた その総意と伝達を よりたくましくより美しく 現代に生かす願いをこめ 明治百年を記念して 郷土館が建てられた」青森県知事竹内俊吉昭和48年3月
 明治4(1871)年に青森県が誕生してからことしでちょうど150年。この節目に、青森県の文化行政はどこへ舵を切ろうとしているのだろうか。」(青森市在住/竹島紀博)

◎No.1「青森県立郷土館の建物の再建、展示スペース、保管施設の拡充、再整理は、速やかに実現するべきと考えます。 ここ最近、地元の歴史を軽視するような風潮が全国的にも見られるが、考えを改めるべきです。 また、観光客目当の偏った世界遺産、縄文遺跡礼賛の動きももっと考えの幅を広げるべきです。もちろん集客のための歴史施設もあっても良いが、それだけで本当に良いのでしょうか? 地元の人たちが先人から学び、知り、未来につなげるための教育施設、知の拠点として 県立郷土館を再興させるべきと考えます。
 全国的に歴史を遺すという活動が軽視されています。厳しい予算からというのは言い訳にはならないような気がします。広島県でも国、県、市の縦割り翻弄された歴史施設がたくさんあると聞きました。一方、東日本大震災を知らない子どもたちも残念ながら増えてきていて、歴史を、伝えることの難しさも改めてクローズアップされています。
 私は青森県立郷土館に、資料を整理収集する機能と知の拠点としての発信する機能の強化を求めます。私は戦後25年で生まれた者ですが、ずっとその25年ってピンとこないできました。今さらながらに25年ってほんの最近なんだよと…。ぜひ、青森県立郷土館には地元の人たちにとって、親しみやすく分かりやすい、懐の深い拠点であってほしいです。」(青森市在住/高橋芳樹)