200年ほど前の春、江戸時代の紀行家・菅江真澄(すがえますみ)は青森の村々を巡っていました。三内で縄形や人の仮面をした古い瓦{三内丸山遺跡}を 見たあと、くっきりと山容を見せる八甲田山の残雪模様が、コメ作りの適期を教えるのだと村人から教わり、日記「すみかの山」(寛政8年、1796)に絵図 を描いて説明しています。
前岳の斜面に「種まき爺」が現れると種を蒔き、赤倉岳の下に「蟹ハサミ」が出ると田をならし、「牛クビ」が見えるころ田植えするというのです(写真上)。
これは今にいう雪形(ゆきがた)のことで、昔は雪国の山々で毎年、同じところに現れる残雪のかたちを人物や動物の姿などに見立て、出具合、消え方から農 作業の段取りを読みとっていたのです。写真下は昔の田起こしの風景で、これは「蟹ハサミ」が出始めると行う過酷な作業でした。
八甲田山には、眺めるところによって異なった雪形が出現します。県東部の七戸地方からは、大岳の斜面に「駒の雪」と呼ばれる白い馬の姿が現れます。県南 の旧十和田湖町の方角からは高田大岳に「駒形」(白馬)、小岳に「鳶形」(トンビ)、硫黄岳に「松形」(老松)が現れます。雪形が山名由来にもなり、昔は 大岳を「駒カ岳」、小岳を「鳶形岳」、硫黄岳を「松形岳」と呼んでいました。
(青森まちかど歴史の庵「奏海(かなみ)」の会・室谷洋司)
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