江戸時代後期の旅行家・菅江真澄は、北海道や東北地方を歩き多くの日記を残しています。今から220年前の寛政8(1796)年、真澄は青森市周辺 の村々を巡っていました。桜が満開の季節で、土器の出土で当時からその名を知られていた三内で“千本桜”を愛でたあと、浪館や細越の山筋の道を通り高田に やってきました。
「高田の村はずれにきた。ここに“九十九盛り”といって、広い田の面に“つむれ”とかいうものが、ひしひしとならんでいる。この土地の話に、むかし 山姥というおそろしい女がいて、浅虫の浦の裸島が寒そうだから麻布を織って着せようと、つむいだ麻糸をたくさん巻いておいたのが、化して多くの塚になっ た。その山姥は神となり、今は機織(はたおり)の宮と申すのである。」(日記「すみかのやま」、東洋文庫編)
真澄の日記のすばらしいところは、要所に独特なタッチの絵図をまぶしていることです。図1の見開き頁の左には三内の“千本桜”が描かれています。右頁には九十九盛りと機織の宮ともうひとつの社、さらに左側の社の前に茅葺きの家々が見えます。
この絵図をもうすこし拡大してみましょう(図2)。田圃一面にたくさんの“つむれ”(小高い丘)が並んでいますが、「裸島が寒そうだから」という逸 話は土地の古老から聞いた話で、真澄は村人の祖先が開墾したときに石や土を積み重ねてできたもの、ということをはじめから見通していました。
それでは、真澄を驚かせたこの風景はどのように変わっていったのでしょう。私の生まれは青森市高田で、学生時代から好んで古里の風景を写真で記録してきました。どこかに“つむれ”が写っていないかどうか確かめてみました。
真澄は三内から山手の道をやってきました。高田に着いて最初に目にしたのは写真1の松ノ木の社の辺りだと思います。ただ絵図には社が二つあり、写真 にはひとつしか写っていません。真澄の日記に折り込まれた絵図の特徴は、その場で実景をリアルに描いたのではなく、そこで感じたさまざまなことがらを1枚 の絵にあらわすという手法がよくあり、社まで消え去ったということにはなりません。図3の地形図にあるように、高田集落には三つの社が現存しています。なお写真1では、“つむれ”は社の右側に二つ写っています。
先日、今の風景を見ようと現地をたずねました(写真2)。松ノ木という社は健在でイチョウが真っ黄色に色づき、後ろの山並みもそのまま。前面には区 画整理された田圃が広がり、社の向こうに東北新幹線と青森空港アクセス道が交叉して見えます。“つむれ”は跡形もなく消えています。なんという変わりよう でしょうか。2枚の写真を比べて川(入内川)の流れる方向が左右逆になっています。あとで説明しますが、かつてこの川はくねくね左と右に枝分かれしていま したが、区画整理で右側1本に改修されたのです。
それにしても“九十九盛り”とそれを構成する“つむれ”が気になります。いまから100年以上も前に測量された地形図(図3)を調べてみました。精 密に作成された地図としてはもっとも古いものです。真ん中が高田村でその西側の田圃に緑色で色を付けて示しましたが、無数の小高い丘(つむれ)があるでは ありませんか。20か所ほど確認できます。“九十九盛り”とはいきませんが、その昔にはいっぱいあったのでしょうか。
上の写真3は50年ほど前に写したものです。なだらかな棚田が広がり遠くに八甲田山がかすんで見えます。画面の右側から入内川が流れており、この一 帯はその扇状地に相当し右から左方向に傾斜があります。水稲栽培は水を張り巡らすため小面積の田を段々に作らなければなりません。田の造成はほとんどが牛 馬とか人力で行われ、不要な岩や石ころは所々にひとまとめにして“つむれ”をつくることになります。矢印(緑色)で示しましたが、ここから二つが確認でき ます。
写真4は秋の収穫で脱穀するために稲を運ぶ女性たちです。“つむれ”はこの背景にも写っています。これらは小さな森で、村人たちはここに畑を作った り、田仕事の合間の一休みの場所としてゴザを敷いて憩いの時間をすごしていました。そちこちから笑い声が聞こえてきて、私もその輪に加わったことがありま した。
戦後になって、稲作は急速に機械化が進みました。高田地区一帯は1975年頃から大規模な区画整理が始まりました。そのときの様子が国土地理院撮影 の空中写真に捉えられていました(写真5)。真ん中の黒々とした熊野宮の西側の田園地帯では、北側に長方形の田が整然と並んでいます。南側は未整理で、この中に“つむれ”が大小五つほど残されています。
このようにして田園風景は一変していきました。高田の“つむれ”や“九十九盛り”だけでなく、真澄が見た風景は県内のどこを見ても探すのが難しく なってしまいました。農村の220年間は多くはゆっくり流れていたことでしょう。しかし振り返って半世紀は、日本の国土を大きく変えてしまったようです。
いまの高田の田園風景を眺めてみましょう(写真6)。50年ほど前までは、田植えや稲刈りは「猫の手も借りたい」ほど忙しく大変でした。ところが今では、たった一人が操作するコンバインでアッという間に終わってしまうのです。何と合理的で便利になったことでしょう。
ただ“つむれ”を探しながら、強く感じたことがあります。それは、農作業はきびしいものでしたが、その疲れをいやすひととき、家族、近所、親戚そして老若男女が一堂に座り、ともに生きることを学ぶ場でもあったのではないでしょうか。
(青森まちかど歴史の庵「奏海」の会:室谷洋司)
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