訪日外国人観光客の数がここ数年伸び続けています。
一時期は大都市の商業地が日本製品を爆買いする外国人であふれましたが、最近ではその数も落ち着き、一方で日本の文化や歴史に触れる旅が外国人の注目を集めています。
青森県は縄文文化が花開いた土地としてつとに有名ですが、戦国時代には激しい合戦が繰り広げられ、県内各所に古戦場跡や城跡が残されています。実はそれらの合戦で、「忍者」が活躍したとする記録が残されているのです。
現代の日本では、服部半蔵や猿飛佐助などのヒーローを映画やアニメの世界でしか触れることができませんが、その昔、甲賀や伊賀の忍者をはじめとして、全国各地の藩で忍者が密かに活動していました。
津軽藩では、初代藩主の津軽為信が多くの忍者を雇って敵の陣地に忍び込ませ、動向を捉えることにより戦国の世を勝ち抜いてきました。
その一人、服部長門は関ケ原の合戦で功を成し、のちに筆頭家老となって藩の体制を整えるとともに、幕府の命により津軽藩が信州川中島へ国替えされるのを阻止するなど、大いに藩の持続的発展に貢献しました。
その後四代藩主信政公は江戸で甲賀忍者の中川小隼人を召し抱え、「早道(はやみち)之者」と呼ばれる忍者集団を結成しました。諸藩の忍者たちは、治 安が安定する江戸時代中期以降は忍者としての役割を終えますが、一方早道之者は明治初期に至るまで、おおよそ200年間にわたり最大約20人の体制で活動 が続けられました。
このように、津軽藩の忍者が長期間にわたり活動が必要とされた理由を解明しようと、平成28年、全国の大学公認部活動として初めて青森大学に忍者部が創部されました。
忍者部は津軽藩の古文書から忍者の活動実態を調べていますが、忍びの活動は記録に残さないことが多く、古文書だけでの調査には限界が生じます。
そのため、新たな情報源として早道之者の子孫を捜索し、蔵などに眠った古文書を発見したり、その家に伝わる伝承を聴取することにも力を入れています。
これまでに、中川流忍術を伝承し、代々早道之者を継承していた棟方家といくつかの家系について重点的に調査を実施しています。
忍者部の活動を知った方より、棟方家一族の者が居住していたと見られる江戸時代の古民家が弘前市内にあるという情報が寄せられました。
現在、古民家の当時の居住者が早道之者と関連があるのか、すなわち古民家が忍者屋敷であったのかについて調査を行っています。
調査の結果、早道之者は藩主の命により、北は蝦夷地、南は江戸に至るまで広範囲にわたって忍びの活動をしていたことがわかりました。
名前の通り津軽の忍者は早足で移動できるるよう、日々さまざまな訓練をして体と精神を鍛えていたと想像されます。
さらには、敵に察知されたとしても知り得た情報を安全、確実に藩に持ち帰るため、一般の武士に交じって剣術や居合術などの武術も稽古していたようです。
津軽藩には早道之者と同時期に多くの流派の古武術が生まれました。
江戸時代末期には、全武芸流派が一堂に集められた合同稽古場「修武堂」が設立され、現在も活動が続けられています。
忍者部員は、早道之者が稽古していたと思われる剣術や居合術を体得するため、修武堂の門を叩いて定期的に訓練しています。
忍者は道なき道を移動しなければならないため怪我をすることも多く、治療のため薬草を調合して独自の忍者薬を作り出しました。
一部の忍者は薬売りに扮して諜報活動をしていました。
このため、薬の知識を身に着けた忍者の子孫が、明治時代になって薬業に転じた人も多かったと聞きます。
弘前の古民家がかつて家中薬草の匂いがしたとの言い伝えもあり、その点でも忍者の住居だったのではないかとの推測がなされています。
忍者と薬の関係は、忍者部員の8割以上が薬学部の学生という点においてもその関連性が続いているのかもしれません。
代々早道之者の支配者を務めた棟方家一族は武芸のみならず、茶道や和歌などの文芸の分野において多彩な能力を発揮していたことがわかりました。
冒頭に記したように、こうした日本固有の文化はインバウンドでやってくる外国人観光客の興味の対象となっており、青森への観光客を増加させるべく、忍者部員は茶道や座禅などを通じて和の精神を修養しています。
同時に、会得した剣術を活用し、豪華客船の乗客に向けた忍者ショーなどのイベントに対応できるよう、日々練習を重ねています。
(青森大学薬学部教授清川繁人)
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