奏海の会研修会「八戸ツアー」(2023年10月30・31日)に参加した。今回のテーマは、「八戸の文化施設を探る」である。1泊旅行はこの研修会では初めてのことで、晩秋ではあったが今年一番の日和であった。このような企画は、やはり天気が一番である。欲張って過密すぎるようなスケジュールであったが、終始楽しく八戸を満喫することができた。これもコース設定から案内までつとめてくれた鈴木徹氏の懇切丁寧な配慮があったからで、同氏に心より感謝する。鈴木氏は黒石市在住であるが、八戸市小中野が生まれの歴史家。二日間で八戸の何を学び、そして楽しむかを教えてくれた。

筆者は、青森市の田舎生まれで生粋の津軽っ子。昔から青森県は、「津軽」と「南部」といわれた。昭和40年代にマスコミ界に入り、それは“県民のテレビ局”ということから、南部の中心・八戸市にも足繁く取材に出かける機会があった。一番の繁華街の三日町には、デパートでいうと三萬(みまん)とか三春屋、丸光、長崎屋などがしのぎを削り賑わっていた。この通りを中心に、2月には「えんぶり」が8月には「三社大祭」が盛大に行われていた。昭和47年(1972)には、新しく「八戸春まつり」というのも開催されることになり、周辺市町村の伝統芸能がここに集まり市民の喝采を浴びていた。この祭りは、のちに夏に行われることになったが、4回ほどで終わったように記憶している。津軽生まれには、同じ青森県でもこんなに雰囲気が違うものかと興味津々だった。

番組をつくるということは、さまざまな取材が欠かせない。祭りを理解するには、県南地方の風土とか、なりわいを詳しく知る必要がある。関係者と南部弁と津軽弁での交歓が始まり、夜は酒を交わしながら話がはずんだ。

ときには、八戸の方々は「青森には○、△、□がありますね! それは、県都だからということなんでしょうね」と。○とは県営スケート場で、△とはアスパム(青森県観光物産館)の異様に目立つ三角形の建物のこと。□は県営浅虫水族館のことである。「知事が、津軽出身が続いていることがあるかも!」・・・・、といった詮索も続く。

戦後の日本は、高度経済成長という勢いのもとにあらゆるものが変わっていった。町並みも山野もどんどん改変されていった。今回のテーマとなった文化施設の整備においても同じである。しかし、この面は各市町村の行政や住むひとびとの考え方で、大きな較差が生じていったことも否めない。とくに八戸の場合は、八戸藩からの伝統が連綿と続いており、しかも「○」の県営スケート場には、氷都・八戸というメンツがあり、なぜ八戸に作らないのかという反発も強かったように記憶している。

八戸の文化施設探訪

今回のツアーでは、博物館・美術館を中心に7つの施設を見学した。これに加えて各種資料を参照しながら3つ、合わせて10の施設を紹介したい。それぞれ、その概要と展示内容についておおざっぱに記し、これから観覧したいひとの参考になればと地図と写真も添えた。ひとことふたこと感想も付け加えておいた。

図1ー八戸市全体と3つの区域(Googleマップをもとに作成)
図2ーAの範囲(①是川縄文館、⑩八戸公園植物園)

世界遺産の是川遺跡から博物館、史跡・根城、美術館

①八戸市埋蔵文化財センター 是川縄文館 〒031-0023八戸市是川字横山1

令和3年(2021)に北海道・北東北の17縄文遺跡群が世界遺産に登録された。そのうち青森県東南部の遺跡が是川石器時代遺跡である。この遺跡は古く、昭和32年(1957)に国史跡に指定された。市南部の新井田川沿いの標高10~30メートルの台地に広がる縄文時代からの集落遺跡で、【一王寺遺跡】縄文前・中・後・晩期、弥生前期、平安時代。【堀田遺跡】縄文中・晩期と弥生前期。【中居遺跡】縄文中・後・晩期と弥生前期の3つを総称した呼称である。

是川縄文館は、平成23年(2021)に開館(写真1)。館内の展示構成は、【①縄文への道、②縄文くらしシアター、③縄文の美(漆の美)、④縄文の美(是川の美)、⑤縄文の美(風張の美)、⑥縄文の謎、⑦国宝展示室で、「国宝・合掌土偶」】。

展示室に入る前のロビーに泉山岩次郎と義弟・斐(あや)次郎両氏の胸像がある(写真2)。ここの遺物の多くは大正9年(1920)から両氏によって発掘され、戦後になって6,000点あまりの収蔵品が八戸市へ寄贈された。両氏の遺徳をしのび敬意を表したい。各展示室をめぐり縄文の心に触れながら、一番奥まったところに国宝展示室がある。広い一室に高さ19.8センチの合掌土偶が光り輝いている(写真3)。展示室のほかに研修室・図書閲覧コーナー(写真4)がある。1階には体験交流室がある(写真5)。さらに詳しく調べたいひと、そして子供たちに体験しながら学んで欲しいという配慮がなされている。交流室からは子供たちの声が聞こえ、当日は月曜日だったので、学校教育に活かされているのだと知った。

写真1 是川縄文館全景
写真2 泉山岩次郎・斐次郎の胸像
写真3 国宝・合掌土偶
写真4 図書閲覧コーナー
写真5 体験交流室
図3 Bの範囲。②八戸市博物館から⑨児童科学館までの施設

 ②八戸市博物館 〒039-1166 根城字東横35-1

昭和58年(1983)開館。八戸市街地の中心部から西に約2キロのところに「史跡根城の広場」があり、その東端に建てられているのが八戸市博物館。正面入口を飾るのが馬に乗った南部師行(もろゆき)像(写真6)で、この武将が北東北平定の拠点となる城・根城を築いた根城南部氏の活躍の始まりとされる。

ところで南部氏というと、中世の「三戸南部氏」と「根城南部氏」、近世の「盛岡南部氏」と「八戸南部氏」、そして「遠野南部氏」などがあるそうで、こんがらかってしまう。それぞれの南部氏は甲斐源氏加賀見次郎遠光の3男・光行に始まり、子孫である4代・師行が「根城南部氏」を築いたのだという。戦国時代に勢力を拡大した「三戸南部氏」は、のちに「盛岡南部氏」と「八戸南部氏」になったという。

博物館の展示は「根城をめぐって」から始まり、寛文4年(1664)に八戸藩2万石が誕生してからの歴史、人々の暮らしの民俗展示など、つぎのような構成で見せていく。

【考古展示】先人の知恵、蝦夷の国、根城をめぐって。【歴史展示】八戸藩の誕生、城下町八戸、飢饉と百姓一揆、近代の幕開け。【民俗展示】いろりを囲んで、昭和の暮らし、海に生きる、町の商い、祈るこころ。【無形資料展示】八戸地方に伝わる民謡・昔話・わらべ唄・方言・市内各学校の校歌・八戸の観光。【縄文の部屋】体験コーナーなど。

筆者は、昭和の暮らしのなかで成長した。南部と津軽は、気候・風土から微妙な違いはあるが風合いは同じで、幼いころを思い出しながら見ていった(写真7)。“よるな近づくなメドツが出るぞ”という看板(写真8)にはビックリした。昭和51年(1976)当時、八戸市田向地区の川に水難事故防止で建てられていたという。メドツとは河童のことで、昔はカワウソのことをこのように言ったのではないかといわれている。子供たちは川遊びが好きだ。親たちは、メドツに足を引っ張られて溺れ死ぬから気をつけろというのである。川での事故は、今ではすぐニュースになり、時には全国に放送される。ところが当時は珍しいことではなく、子供たちはこのようなことから水の危険なことを知り、自己防衛の能力を付けていった。メドツのことは、津軽でも同様にいわれていた。

 館内には体験学習室や講義室などが設けられ、生きた学習の機会を提供できるようになっている。

写真6 八戸市博物館
写真7 昭和の暮らし
写真8 川遊びの事故防止看板

 ③八戸市 史跡根城の広場 〒039-1166 根城字根城47

史跡根城跡は、中世の北奥羽を治めた根城南部氏の居城として、昭和16年に国史跡に指定され、日本の百名城でもある。史跡の広さは約18.5ヘクタール。とにかく広くて気持ちが良い。

上記の八戸市博物館の項で記したように、根城は建武元年(1334)に南部師行により築城されたとされ、寛永4年(1627)に遠野に国替えされるまでの約300年間、南部氏の居城であった。 

【遺構】土塁・堀・井戸・供養塔・大銀杏。【復元建築物】主殿・上馬屋・中馬屋・工房・鍛冶工房・板倉・納屋・東門・北門・西門・番所・中館馬屋。

ここは、中世の城郭として全国的にも貴重な存在。昭和53年(1978)から11年間におよぶ発掘調査が行われ、その成果に基づいて復元整備に9年間を要したという。広場(平成6年、1994年公開)は芝生に覆われているが、全体を取り囲むようにシダレザクラが植栽されている(写真9)。城を築いたとされる南部師行は、甲斐源氏加賀見次郎遠光の3男・光行の子孫であることは前に記したが、そこは今の山梨県南部町である。このことから、植栽したシダレザクラの一部には「身延の桜」と表示されている(写真10)。

広場のなかほどに金属製の城郭全体の模型が置かれている(写真11)。根城は「平城」で、鎌倉時代初期から南北朝時代にかけての武士の住まいの特徴をよく表しているという(「日本百名城」指定の多くは「山城」)。現状での堀は浅いが実際はもっと深く、危険防止のため埋めて浅くしているという。さらに進むと復元された居城(主殿、平成23年、2011公開。写真12)に至る。

 主殿は、それぞれの用途の部屋が続いており、それらがグルリと廊下(縁側)で囲まれている。ひときわ目を引いたのは広間で開かれた“正月十一日の儀式”と説明されている様子である(写真13)。上位の武士がグルリと正座し、その前にお膳が置かれている(写真14)。何と質素なことか。和食の基本とされている一汁三菜はこれが原点なのであろうか。ボランティアガイドに案内してもらったのだが、それぞれの器の中身が何なのか聞き逃した。

写真9 史跡 根城の広場
写真10 身延の桜
写真11 城郭全体の模型
写真12 復元された主殿 
写真13 正月十一日の儀式
写真14 質素なお膳

 ④八戸市美術館(ハチビ) 〒031-0031 番町10-4

令和3年(2021)に新美術館として開館。旧美術館を解体し、隣接する市有地ほかの敷地を合わせた区域に、豪華な建築面積3,080平方メートルの白亜の地上3階建て(写真15)。八戸市庁や商工会館に隣接し中心街の三日町とも近く、気軽に歩いて行ける場所に立地しているのが嬉しい。

当館のコンセプトは、「アートを通した出会いが人を育み、人の成長がまちを創る『出会いと学びのアートファーム』。従来の「もの」としての美術品展示が中心だった美術館とは異なり、「ひと」が活動する空間を大きく確保することで、「もの」や「こと」を生み出す、新たな文化創造と八戸市全体の活性化を図ることを目指す。具体的にはつぎの通り。

【展覧会】地域に関連した、あるいは比較対象となる、過去から現代に至る国内外のアートを扱う。【プロジェクト】アートを通して人と人が出会い、学び、一緒に活動し、作品だけでなく新たな価値を生み出す。【アートファーマー】美術館活動に主体的に関わる市民を、アートでコミュニティを耕して育むことを「アートファーマー」と呼び、さまざまな経験ができる環境を作り出す。【共創パートナー】美術館活動を一緒に行う市民や団体、教育機関、企業などを「共創パートナー」と呼び、地域の新しい価値を生み出していく。【学校連携】学校教育の現場が大きく変わりつつあるなかで、アートの学びを重視する美術館として、教育機関との連携強化を図る。【コレクション】地域の芸術や文化、まちの歩みに寄り添いながら、未来を見据え、多様な価値観を創出し、人を育むための美術資料の収集を行う。現在、約3,000点のコレクションを収蔵。主なコレクションは橋本雪蕉、七尾英鳳、渡辺貞一、石橋宏一郎、月舘れい、豊島弘尚、戸村茂樹、宇山博明、佐々木泰南、石橋忠三郎など八戸ゆかりの美術家の作。ほかに、棟方志功、島岡達三、舟越保武の著名作家の作品。

入口をはいってすぐ、だだっ広いホールがあり「ジャイアントルーム」と名付けられている(写真16)。その日は机と椅子が置かれているだけだが、実はさまざまな活動が行われる「ひと」のための大きな部屋で、可動式の家具やカーテンにより、交流、プロジェクト、展覧会などさまざまな場を創り出すのだという。通常の展示室は写真16の奥左に配置されている。

この「ハチビ」を見学したのは10月30日で、企画展「ロートレックとベル・エポックの巴里―1900年」(11月3日~)を鑑賞できなかったのは残念だった。ただこのときから、“子連れでゆっくりと鑑賞を”と、ベビーカーで入場可能。さらに月1回、無料託児所ルームも設け、周囲に気兼ねなく美術館を楽しめる機会を提供しているという。これからの社会にピッタリの気配りで、脱帽・・・・。

写真15 八戸市美術館(ハチビ)全景
写真16 ジャイアントルーム

街のど真ん中 ― ユニーク過ぎる「八戸愛」の試み

 急速に発達した日本の車社会。街の中心部は身動きがとれず、大型商業施設はどんどん郊外にできていった。かつて三日町は八戸一の繁華街で、デパートや有名店がひしめき合っていたが、年々勢いを失っていった。これは日本の多くの都市に見られる空洞化の現象である。

このような中で、八戸市は賑わい、活気を維持しようと街のど真ん中に、つぎの3つのユニーク過ぎる試みを成し遂げた。・・・・およそ半世紀前の風景を思い起こしながら、筆者にはこのように思えた。

 ⑤八戸ポータルミュージアム はっち 〒031-0032 三日町11-1

平成21年(2011)オープン。来館者が八戸市内観光のため足を踏み出す「玄関口=ポータル」として、また市民の創造活動の拠点として、八戸の本質に触れることが出来る「博物館=ミュージアム」の機能をもになうというキャッチフレーズ。「はっち」は公募による愛称で、八戸の“はち”とか、卵のふ化や出入り口を意味する“hacchi”にも因むのだという。前の美術館を「ハチビ」と呼んだり、そしてこの「はっち」・・・・。八戸市は愛称をつけて、こぞって賑わいの場を盛り上げているようだ。

三日町通りに面した豪華な5階建てのビル(写真17)。 “What is hacchi ?”というパンフレットには、「1600年代より城下町として発展してきた八戸の中心街は、八戸三社大祭や八戸えんぶりなど国の重要無形民俗文化財に指定されたふたつの伝統的な祭りが行われてきた場所であり、昭和30年代から商業・金融・行政などの機能が集まり、まさに八戸の中心部、都市の顔として栄えてきた。“はっち”はそんな八戸の顔である中心街を元気にし、そしてまちの新しい魅力を創り出すために生まれた。」、とある。やっぱり!・・・・。

写真17 八戸ポータルミュージアム はっち全景

【1F はっちひろば】シアター1・放送スタジオ・カネイリミュージアムショップ・カフェバル Rit.・ギャラリー1・はっちひろば・番町スクエア・はっちコート・観光展示。【2F 展示スペース】シアター2・地酒カフェはちのへ・ギャラリー2・観光展示・CHEESE DAY。【3F 展示スペース】音のスタジオ・編集室・ギャラリー3・たまに庵・very berry +・観光展示・八庵・和のスタジオ。【4F ものづくりスタジオ】食のスタジオ・リビング4・伝統工芸体験ブース・工房「澄」・ものづくりスタジオ・おもちゃハウスくれよん・モザイクスタイル・和布工房 aya・ものづくりスタジオ・こどもはっち。【5F 共同スタジオ】工作スタジオ・ワークステーション・共同スタジオ・共同キッチン・レジデンスA・レジデンスB・レジデンスC・レジデンスD・レジデンスE。

1階から5階におよぶ豪華で華麗な展示群は、八戸が誇る多様多彩なコンテンツで埋め尽くされている(写真18)。さらに知識を深め、楽しみたいかたは是川①や根城②③、ハチビ④に足をのばせば良いのだと・・・・。

写真18 各階の多彩な展示

オリンピックで日本中を沸かせた伊調馨(金メダル4回で日本の選手で最多)、小原日登美(金メダル)、伊調千春(銀メダル2回)の各選手は、八戸市出身だったのか!(写真19)。医者として民衆を救った安藤昌益を初めとした「八戸の忘れ得ぬ人々」(写真20)、などなどは、“頑張ろう!成せば成る”といった「八戸愛」を彷彿とさせる。

写真19 八戸のスターたち
写真20 八戸の忘れ得ぬ人々

“3.11”の大震災からの「三陸復興国立公園」という小コーナーには、「種差海岸と吉田初三郎」の紹介があった。日本中の都市や景観の鳥瞰図作家として著名な吉田は1932年に八戸を訪れた。種差の景観を「これまで見た景色の中で最も優れている」として、ここに別荘「潮観荘」を建て皇族や政財界の名士、文人を招いて全国に紹介したという(写真21)。

写真21 種差海岸と吉田初三郎

帰り際、1階のホール(写真22)に「獅子舞のからくり時報」があるという。その音を聞こうと正時まで待つ。鳴った、吹き抜けホールに木製の顎が打ち鳴らすカカカンという音が鳴り響いた。三社大祭の獅子頭の音が・・・・(写真23)。

写真22 1階の吹き抜けホール
写真23 獅子舞のからくり時報

 ⑥八戸まちなか広場 マチニワ 〒031-0032 三日町21-1(はっち向かい)

平成30年(2018)年オープン。「はっち」の筋向かいにある“ガラスの屋根付き広場”・・・・「マチニワ」である」(写真24)。これは、雨や雪などの天候に左右されずに快適に過ごせる多目的スペースだという。

写真24 八戸まちなか広場 マチニワ全景

【その使い方は?】 「1.光・緑・水など自然を感じられる、透明感あふれる心地よい場所として」、「2.まちかどの“庭”のような場所」、「3.テーブル・椅子がいつもあるバスの待合&憩いの場所」、「中心街にあるオープンエリアの“なにか”、“だれか”に出会える場所として」とある。もうちょっと具体的にいうと、「食」、「パフォーマンス」、「音楽」、「大型ビジョン」などのイベントなどなど。向かいには「はっち」があって、こっちは人=市民が実践する場所なのである。貸出し利用には使用料が設定されている。

 ⑦八戸ブックセンター 〒031-0033 六日町16-2  Garden Terrce 1F

平成28年(2016)オープン。「本のまち八戸」の拠点(写真25)。本好きを増やそう、本でまちを盛り上げようと。

写真25 八戸ブックセンターの内部

【ギャラリー】本に関するさまざまな展示。【フェア棚・ひと棚】八戸にゆかりがある方の選書や八戸から連想されるテーマ本の棚。【カンヅメブース】八戸市民作家登録した方に、執筆する部屋として使用いただく。【三浦哲郎文机】八戸が生んだ作家・三浦哲郎愛用の特注文机のレプリカを読書机に。【読書会ルーム】ブックセンターあるいは市民が企画した読書会をおこなう。

メディアのとどまることのない進化と多様化。この先、活字文化はどうなるのだろうか。市民それぞれの関心は千差万別、ちょっと絞り込んで活字や絵に親しんでもらおう。青森県が生んだ棟方志功は、ことし生誕120年。若いひとびとは良く知らない、こんな人だったのか! 年配のかたがたがは改めてその偉業に触れる(写真26)。三浦哲郎は? 南部弁は? そのDVDは?(写真27)・・・・。

写真26 棟方志功コーナー
写真27 三浦哲郎、ほか

ある統計によると、日本の1年間の新刊発行数は7万冊以上だという。国民の本離れはどんどん進んでいるが、まだまだこれは大変な数である。そして、どこにどのような本があるのか! このブックセンターは、その助けになるだろう。スマホや動画サイトなどメディアが多様化するなかで、本は文化の基本であり、そのようにあり続けて欲しい。

望まれる自然系博物館の設置

今回の研修ツアーでは、これまで記した7つの施設を駆け足で見学した。考古、歴史、民俗、美術が主体で、「はっち」のように現代・未来を見つめる人文科学系の施設である。要点を把握したので、詳細はつぎの機会にゆっくりと楽しみたい。

一方、自然科学系の施設はどうかと探って見たが、3つの施設があることを知った。内容について簡単に記しておく。いずれも、機会をみて見学したいと思う。

図4 Cの範囲。⑧水産科学館マリエントの位置

 ⑧八戸市水産科学館 マリエント 〒031-0841 鮫町字松苗場14-33

【イカパラダイス】。【しおりコーナー】。【はちのへ「ちきゅう」情報館】。【大水槽】。【ウミネコアイランド】。【ウミネコシアター】。【タッチ水槽】。(写真28)

写真28 水産科学館マリエント

 ⑨八戸市視聴覚センター 児童科学館 〒031-0001 類家4-3-1

【プラネタリウム】季節毎の一般投影番組のほか、団体向けの作品として、小中学校向けの「学習投影」や、幼稚園・保育園・認定子ども園むけの「幼児投影」、一般向けの「季節の星空散歩」など。【KIDS工房】簡単な工作体験ができる「KIDS工房」を開催。(写真29)

写真29 視聴覚センター 児童科学館

 ⑩八戸公園 八戸植物公園 〒031-0012 十日市字天摩33-2

【緑の相談所】、【サンルーム】、【バラ園】、【花木園】、【日本庭園】など。(写真30)

写真30 八戸植物公園

青森県の県南に位置する八戸・三戸地方は豊かな自然環境に恵まれている。東は太平洋に面し、そこに馬淵川と新井田川の2つの川が流れ込む。内陸には、えんぶり起しで豊年を願ったように耕地が豊かに広がり、海や川の幸、山の幸がひとびとを豊かに育んできた。

すでに記したように、鳥瞰図作家の吉田初三郎が別荘・アトリエまで建てて絶賛した自然がそこにある。筆者は、ライフワークとして青森県の自然環境に関心をもち、これまで八戸市街地にはあまり入らなかったが、周辺の自然調査を年数回は続けてきた。それらは、津軽、下北地方とは違った様相を見せてくれる。とくに近年の気候変動は、これら自然環境に大きな変化をもたらし、それがひとびとの生活・文化にさまざまな影響を与えていることは間違いない。三八地方には蕪島から種差海岸、周辺の山野などと、ほかとは違った地質、生物相を見せてくれる。また当地には、古くから海洋を対象とした研究機関もあり、豊富な資料が蓄積されている。このような観点から、願わくば、自然系を主体とした施設も望まれるところである。

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地元・青森市の文化施設の現状

今回の「八戸研修ツアー」は、奏海の会として青森市の文化施設を考えるために県内各地の現状を知ろうというのが目的であった。八戸市の現状をみて、昭和・平成を通じて築き上げた成果には目を見張るものがあった。とにかく、同市の行政と市民ぐるみの熱意がずっしりと伝わってきた。

筆者自身、“井のなかの蛙”であったことを恥かしく思い、県内各市町村の行政をになう方々にもつぶさに見て欲しいものと痛感した。一泊二日の「八戸愛」への熱い思いが忘れ去らぬうちに、青森市の現状についての感想もまとめてみることにした。

 青森市の文化施設について、同市の公式ホームページを参照に歴史系、美術系の各施設をつぎのように選択し列挙した。

①縄文の学び舎・小牧野館 〒031-0012 青森市大字野沢字沢部108-3

 平成24年(2012)に廃校になった旧野沢小学校を活用して設置。「土器や石器などの生活道具から縄文人の暮らし」、「縄文時代の墓や、祭祀に関する道具・模型など」、「市指定文化財を含む出土品」、「小牧野遺跡全体の模型」、「市内から出土した数多くの土器」。

②小牧野の森・どんぐりの家 野沢字小牧野41

 小牧野遺跡に隣接し、遺跡や自然環境の保全活動・観察を通じて、遺跡保護への理解を深める新設の施設。

③青森市森林博物館 〒038-0012 柳川2-4-37

 昭和57年(1982)、青森営林局の庁舎(明治41年、1908)が青森市に譲渡され、これを活用して展示。展示室のテーマは「森と仲間たち」、「木と暮らし」、「雪とスキー」、「青森とヒバ」、「津軽森林鉄道」、「森を育てる」、「森林鉄道機関車」、「旧営林局長室」。

④あおもり北のまほろば歴史館 〒038-0002 沖館2-2-1

みちのく北方漁船博物館財団から市に譲渡され、これをもとに、平成27年(2015)オープン。

「青森の歴史~縄文時代から近代の歩み~」、「津軽海峡沿岸のムダマハギ型漁船と漁業」、「昔の生活用具/昔の農業の様子」、「近現代の青森~明治から昭和の時代~」、「商いと看板」、「青森市名誉市民/青森市ゆかりの人々」、「着物の世界」、「青森市の発展と景観」。

⑤青森市中世の館 〒 038-1311 浪岡大字浪岡字岡田43

中世の城館「国史跡浪岡城跡」から出土した遺物の展示。城の全景を復元した立体模型、大広間の再現コーナー、映像で歴史を学ぶコーナーなど。

平成4年(1992)に当時の旧浪岡町に中世の館として資料館を創設。平成17年(2005)に青森市と合併し上記の名称となった。

⑥幸畑墓苑・八甲田雪中行軍遭難資料館 〒030-0943 幸畑字阿部野163-4

 八甲田山雪中行軍遭難の史実に関する資料を展示。

⑦青森市港湾文化交流施設 青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸 〒038-0012柳川1-112-15

歴代の青函連絡船55隻のなかで、23年間という現役期間が一番長かった同船を、青森市の歴史とともに展示。

 ⑧青森市民美術展示館 〒030-0801 新町2丁目7番1号

 市民に美術作品の展示や鑑賞の機会を提供するために設置された施設。令和6年度中に青森駅東口に建設中の駅ビルに移設予定。

考えなければならない基本的なことがら

本稿の最初に、他市で耳にした県都青森市に設置された○、△、□のエピソードを紹介した。いずれも県立の施設でこれに加えて総合博物館の県立郷土館があり、近年県立美術館も設置された。青森市は県都に置かれた、これらの施設に甘んじてきたのではないだろうか。上記の市がつくった8施設を見て、その内容に大きな落差を感じるのは筆者だけであろうか。

もう少し具体的に言うと、これら(県立)があれば、多額の予算を使って市独自の博物館や美術館を造らなくても十分、間に合う。あるいは行政には、ふるさと青森市を深掘りする施設をつくるという発想が初めから希薄だったという可能性。もしそうだとしたら、青森市民はあまりにも惨めで情けない。ふるさと独自の、歴史がちりばめられた物語を読むことができない。

博物館とか美術館には、基本的な必須要件がある。簡単にいうと、「資料の収集・保管、展示による教育、調査研究」を一体として行うことである。このような観点から、青森市の各施設について考えてみよう。

【資料の収集・保管】小牧野遺跡などの付帯施設についてはここでは触れない。博物館と歴史館という名がついた「青森市森林博物館」と「あおもり北のまほろば歴史館」について記す。

両館は、他から譲渡された建物で、改装で多少の手を加えたとしても、“資料収集・保管”の面ですぐ限界に達するであろう。“展示”においても見るひとを引きつける効果的な手法ができない。ふるさと青森の、唯一無二の貴重な資料を安全に後世に伝えるとしても、空調や余裕をもった堅牢なスペースが確保されていないと、遅かれ早かれ新築を余儀なくされる。これは、もともと博物館などの用途に応じた設計がなされていなかったからで、自明のことである。

さらに両館が、それぞれ自然系博物館と歴史系博物館を目指したのであれば、現有の資料だけではあまりにも不足でみすぼらしい。年月の移り変わりはあまりにも早く、収集には手遅れの感が強いがそうは言っておれない。総合博物館としてキチンとした施設をつくり、青森市の過去から現在にわたって時代を証言する資料を、積極的に収集・保管して後世に伝えて欲しいものである。

【展示による教育、調査研究】筆者は、最新の情報を持ちあわせていないが、各施設には常駐の学芸員が不在あるいは少ないのではないかということである。これでは、適切な収集・保管・展示ができないばかりか、市民への教育や時代に即した調査研究ができない。さらにいうと、ひとりの学芸員はオールマイティではない。あつかう分野は、考古・歴史・民俗・自然などと多岐にわたり、それらに応じた配置をする必要がある。

博物館は、市民に対して郷土に誇りをもつための「知の世界」を提供し「青森愛」を育む。それは、学校教育や社会教育を通じて全国共通の教科書や書物では知り得ない、郷土の生の資料を見せながらである。

余談になるが最後に2つほど記したい。数年前に「奏海の会」では恥ずかしくない博物館の設置を求めて青森市に陳情を行った。そのとき、市の責任あるかたの答弁が今もって忘れられない。いわく、「青森市では、いま操車場跡地(現・セントラルパーク)に大型のスポーツ施設をつくらないとダメなんです!」。当方は、この一言にあきれて絶句、なにも今すぐとは言っていないのに・・・・。確かに市民の健康な体づくりは一番である。これに知識が加わって初めて社会が成り立つのではないだろうか。

最近、知人から市の担当者の弁としてつぎのようなことを聞いた。(青森市に本格的な博物館が必要でないでしょうか? という問いかけに)「青森市には、森林博物館があります。北のまほろば歴史館もあります。間に合っているんです!」と。青森市の担当のかたがたは、前述した博物館の基本的な要素など念頭になく、この程度の考え方で文化行政をになってきたのかと空しい気持ちになった。お金はかかるが、これは豊かな郷土づくりのためなのである。

青森市民憲章には、「わたしたちは、青い空、青い海、青い森にいだかれ、悠久の歴史と香り高い文化と伝統に満ちた青森市の市民です。郷土あおもりを心から愛し、夢と希望にあふれたしあわせなまちにしよう」とうたわれている。

先に,八戸市の各施設を見てきた。その設置年をみると昭和もあるが、多くは平成になされている。この種の施設は恒久性が求められ多くの予算を必要とする。その困難を乗り越えて、多様多彩な文化施設を造り上げ、老若男女、そして未来に向けて八戸愛をつないでいる。

一方、青森市はこの間、何をやってきたのだろう。平成の時代を見渡して、市民として“文化の香り”を与えられた気がしない。大正・昭和生まれのひとは、このまちの「悠久の歴史と香り高い文化と伝統」を知るよすがもない。若いかたがたは「青森の誇り」を身にまとうことなく、故郷から出ていく。令和の時代は何としても、「文化と伝統」と「夢と希望」を与えるために、挽回のチャンスと位置づけて邁進して欲しいものである。
(室谷洋司/奏海の会副会長)