2021年11月27日(土)、奏海の会が発足して初めての、市外散策ツアーを黒石市で実施しました。奏海の会会員9名が参加し、黒石市在住の鈴木・三浦両会員の案内で、雪の降る中をじっくり黒石を探索しました。

黒石散策ツアーの様子

 以下に、当日配布された鈴木徹会員の力作資料を3回に分けて、紹介します。

1.⿊⽯と津軽信英 

 津軽信英は、弘前⼆代藩主津軽信枚の⼆男で、津軽為信の 孫にあたる。 元和6年(1620)10⽉6⽇、江⼾神⽥の藩邸で⽣まれ た。幼名を萬吉といい、⻑じて左京・信逸、⼗郎左衛⾨信秀 と名乗り、分知後に信英と改めた。 寛永8年(1631)4⽉1⽇、12歳の信英は、家督相続し た兄でもある弘前3代藩主津軽信義とともに3代将軍徳川家 光に拝謁している。寛永19年には、23歳で幕府⼩姓組に召 し出され、幕府旗本となった。その⼀⽅で⽂武の修⾏にも励 み、当時の⾼名な兵学者、⼭⿅素⾏に学んだ。⽂武両道に優 れた信英に幕府の信頼は厚かった。

 明暦元年(1655)11⽉、弘前藩主三代津軽信義が37歳で 亡くなると、信政が四代藩主を継ぐことになる。明暦2年2⽉2⽇、幕府から津軽平蔵信政 に47000⽯の家督相続の許可すること、また、信政が数え年11歳であったため叔⽗にあた る信英を後⾒職に任命し5000⽯を分知するように申し渡された。このことにより、信英は、弘前四代藩主信政の後⾒職となり、また、内分分知5000⽯の領主となる。⿊⽯初代領主の誕⽣である。

 信英が分知を受ける知⾏地が決定したのは明暦2年8⽉である。⼭形村を含む⿊⽯領2000⽯、外ヶ浜の平内領1000⽯は、既に内定していたが、これに上州⼤館領分(現在、群⾺県 太⽥市、伊勢崎市周辺)を加えた表⾼5000⽯である。

 分知後に信英は、⿊⽯陣屋の構築と⿊⽯町の町割りに着⼿している。 ⿊⽯陣屋は、御幸公園や⿊⽯神社がある辺りに築造したものと推定される。現在の市⺠⽂ 化会館の地点に御殿と台所を配し、東側に太⿎⽮倉、⻄側に御蔵、南側に柵⽴、塩硝蔵を配している。⼤⼿⾨は現在の市ノ町と内町の交差点に、東⾨は、市役所の駐⾞場の北東側に、⻄⾨は内町と⼤⼯町の交差点に各々建てられた。

 また、信英は、陣屋の周辺に屋敷や⼈町などを配し、町割りを⾏った。当初、その際、新しく町名を付けたと思われていたが、『明暦の検地帳』の発⾒により、町割り以前から存在した古い町並みに基づいて町割りが⾏われていたことが解明された。

 明暦の検地帳には、本町、古町、おいた町、上町、徳兵衛派、横町、派町、浦町、寺町、新⼋町の町名があり、これらの町並みに侍町(内町、⼀の町)や職⼈町(かじ町、⼤⼯町、⾺喰町)を加えて、⿊⽯の町並みを形成した。

2.⿊⽯神社

 寛⽂2年(1662)9⽉22⽇、弘前城内で信英が43 年の⽣涯を閉じると、遺命により儒道を持って⿊⽯陣屋の東側に埋葬され、以来、この地は御廟になった。 明治12年に信英を追慕し拝殿を建⽴した。そして、信英を神霊として祀り、⿊⽯神社とした。

 ⿊⽯神社の宮司は、弘前藩初代藩主津軽為信の末裔にあたる津軽承公である。また、⿊⽯神社には県重宝1点、市有形⽂化財7点を所有している。

3.市有形⽂化財 ⿊⽯神社の神⾨ 平成20年5⽉8⽇指定
規模
桁⾏ 3120㎜ 梁⾏ 1440㎜ 親柱 390㎜×210㎜ 控柱 190㎜ ⾓⾨ 扉 幅1201㎜×背2550㎜⾨扉軸 径83㎜ ⻑106㎜

構造・形式 ⾨の形式は、切妻・鉄板葺屋根の⼀間⼀⼾の薬医⾨で、扉及び蹴放はない。また、⿊⽯神社に扉2枚が保存されており、柱上部の冠⽊に扉軸受けの仕⼝があることから、当初は、扉・蹴放があったと推定される。

 ⿊⽯藩祖津軽信英を崇めるために、明治12年(1879)3⽉に神祭願を願⽴し、同年6⽉に⿊⽯神社創設が官許された。明治14年(1881)の社格改定資料にある萃⾨(⾼⼆間、横⼀間四尺)が神⾨に該当すると考えられる。神⾨の由緒について、陣屋にあった⼤⼿⾨の移築、津軽家の廟⾨の移築が考えられるが確証はない。

 現在の神⾨には、控柱の根継痕など後世の改造によると考えられる痕跡が認められる。扉は、親柱に⽀えられた冠⽊に残る扉軸を受けた枘が残ることである。しかし、現在の礎⽯には扉の軸受枘が無く、扉・蹴放は取り付けられていない。⿊⽯神社に扉が保存されていることから、当初は扉があり、移築時に扉・蹴放をはずしたと考えられる。

 神⾨両脇の袖壁は、当初からあったと考えられるが、親柱に現在の袖壁よりも⼀段低い位置にその痕跡が残されていることから、当初の袖壁は⼀尺五⼨ほど低かったと推定される。

 袖壁を補強する添柱、添柱のボルト締め、礎⽯のモルタル補強などが⾏われている。時期は明確でないが、神主の記憶によると昭和30年代と推定される。

 屋根周りは、当初、柾葺と推定されるが、現在は⾦属板による菱葺きに改装されている。また、垂⽊の腐⾷や破損部分の修復・補強が⾏われている。

 明治12年(1879)に現在地に移築されてから130 年以上経ち、各部材に⾵蝕や腐⾷がみられるが、保存上問題となるような傷みはみられない。移築時に、⾬雪の影響を受けやすい2本の控柱を根継ぎし、全体を修復したと推定されたものと思われる。

 ⿊⽯陣屋に関わる唯⼀の現存する建造物である⿊⽯神社神⾨は、⿊⽯藩時代の建築⽂化を知る上で貴重な遺構である。

【⾖ 知 識】
【津軽信隣】 津軽信隣は、津軽主税信隣といい⿊⽯津軽家⼆代領主津軽信敏の三男であり、初代領主津軽信英の孫にあたる。延宝5年(1677)に江⼾で⽣まれた。⺟は、弘前藩四代藩主津軽信政の妹美代である。

 信隣は、⿊⽯市の曹洞宗⿊梵⼭保福寺の開基であり、そのため保福寺は⿊⽯津軽家の菩提寺になっている。 写真:⿊⽯津軽家第⼆代領主津軽信敏・三男信隣御廟

 信隣は、元禄16年(1703)5⽉1⽇に⿊⽯で没している。⾏年27歳である。平成15年が300回忌法要に⾏い、由緒板を建てた。

【御廟】 中国において廟は、祖先の霊を祀る場であるが、墓所は別に存在 する。⽇本では、特定な⼈物を祀る建物を、霊廟、廟、または霊屋、 御霊屋と⾔われている。

4.重要⽂化財 ⾼橋家住宅 昭和48年2⽉23⽇指定
主 屋 桁⾏21.8m、梁間12.7m、 ⼀部2階 切妻造 妻⼊ 東⾯こみせ・北⾯及び南⾯ 庇付 亜鉛引鉄板葺附 板塀2棟 北22.0m 南5.5m こみせ附属 亜鉛引鉄板葺

 ⾼橋家住宅は、代々⾼橋理右衛⾨と名乗る⿊⽯藩御⽤達の商家である。宝暦13年(1763)の材⽊⾒積書が発⾒されていることから、宝暦年間から明和年間に新築されたと考えられる。屋号は、主に⽶を扱ったことから「⽶屋」といい、その他に味噌、醤油、塩などの製造や販売を⾏っていた。屋根は、建築当初は、⻑柾葺であったが、昭和初期頃に亜鉛引鉄板葺になり、現在に⾄る。主屋の内部は、通り⼟間と⽚側2列並びに10部屋を配している。天井は吹き抜けであり、あまり太くない梁が2、3段と整然と架けられている。通り⼟間の北⾯には⼤きな明り取り窓がある。「みせ」の部分に奥⾏き2間の中2階があり、8畳間と4畳⼤の板間からなる。屋根が低いため「与次郎組」という⼯法が⽤いられている。住宅の構造は、吊り上げ式⼤⼾、通り⼟間、吹き抜け天井、出格⼦窓などからなり、津軽地⽅の典型的な商家の造りである。

5.追加指定 ⽶蔵・味噌蔵 ⽂庫蔵 平成16年12⽉10⽇指定
 附指定『宝暦⼗三年癸未年 ⼟場材⽊直段書』⼀冊『宝暦⼗三年癸年九⽉ 材⽊直附帳』⼀冊『材⽊直段覚』⼀冊『宝暦⼗三年未年⼗⼀⽉晦⽇ 材⽊直附帳⼊』⼀袋『甲申年⼗⽉廿三⽇ ⼟蔵棟上諸⼊⽤控』⼀冊

〇 ⽶蔵・味噌蔵
規模 桁17.1m 梁⾏7.5m 形式 ⼟蔵造、平屋建、切妻造、平⼊、正⾯に設けた庇は板壁で囲む(蔵前)建築年代 ⾼橋家住宅の建築年代と同時期と推定 内部は、南側が⽶蔵、北側が味噌蔵に分かれており、それぞれが吹き抜けの⼀室で味噌蔵の北半には⼆階規模の棚が設けられている。軸部は柱を密に⽴て、内壁は縦板張りとしている。⼩屋組は味噌蔵が登梁式であるが、⽶蔵は棟⽊から太い垂⽊を桁に架ける。外壁は、⼟壁であるが、正⾯は両開き扉を含め全体を中塗り仕上げとしている。屋根は、置屋根式の鉄板葺で南の⽂庫蔵と連続している。

〇 ⽂庫蔵
規模 桁5.7m 梁⾏7.5m 形式 ⼟蔵造、⼆階建、切妻造、平⼊、正⾯に設けた庇は板壁で囲い、表を杉⽪で保護する。
建築年代 ⾼橋家住宅の建築年代と同時期と考えられる。 内部は、1階、2階ともに⼀室であり、内壁は化粧の縦板張とする。⼩屋組は地棟の登梁を架け、棟⽊と主屋を受ける。外壁は⼟壁であるが、正⾯の両開き扉および扉⼝は漆喰塗で仕上げている。屋根は、置屋根式の鉄板葺である。

6.⿊⽯市指定有形⽂化財 鳴海家住宅 平成11年4⽉10⽇指定
 主屋 ⼊⺟屋造 妻⼊ 梁間8間 建坪坪726㎡ 間 ⼝ 17間5尺 奥 ⾏ 43間半
 こみせ ⻑さ23間半 幅1間弱
 作業場 建坪96坪
 その他の蔵等 建坪174坪
 敷地⾯積 4,727㎡
 鳴海家住宅は、約200年続いている造酒屋であり、創業は⽂化3年(1806)である。屋号は創業以来『稲村屋』を名乗るが、⼀般には『菊乃井』の名前で知られている。主屋の平⾯は、南寄り3間が通り⼟間(コンクリート⼟間)になっており、⽚側2列に9部屋が配されている。その並びは、「事務室兼応接室」「帳場居間」「じょうい」「だいどころ」で1列を形成し、そのとなりに「かなのま」「ざしき」「なんど」がある。「事務室兼応接室」「かなのま」の並びには、「ぶつま」と⼟蔵、「いんきょへや」2部屋が並ぶ。

 通り⼟間の奥が作業場であり、⼤きなカマやコシキが設置されているが、そのほかに「前蔵・中仕切り・造蔵」「貯蔵蔵」「仕込み蔵」「とうじべや」「麹室」がある。主屋の北側後ろに⼤⽯武学流の庭園がある。 後ろの庭には、「前蔵」「味噌蔵」が並んでいる。

 主屋は、創業以前から存在するもので、200年以上が経過しているが、明確な建築年代は不明である。しかし、⼟蔵の建築年代は、⼤正2年(1913)以降である。

7.登録記念物 鳴海⽒庭園 平成19年7⽉26⽇登録
 鳴海⽒庭園は、⼤⽯武学流の作⾵を伝える庭園の⼀つで、庭園の特徴である意匠または構造を良く残している。作庭年代は、明治20年(1887)頃に⼩幡亭樹が作庭を開始し、後に池⽥亭⽉が完成したと伝えられている。

 庭園は、T字形を成し、鳴海家住宅の客間と座敷に北⾯する庭園が中⼼と思われる。客間と座敷の沓脱⽯からV字形に配置された⾶⽯は、⼀⽅が池の南岸に据えられた礼拝⽯に向かっており、他⽅は右側の離れ蹲踞へと延びている。池の北端には⼤⼩三⽯から成る枯滝⽯組があり、その周辺や後⽅には深⼭⽯とされる景⽯や野夜燈と呼ばれる⽯燈籠が据えられており、また、庭園の主景となるクロマツが植栽されている。そして、やや離れた東⽅には守護⽯とされる⼤きな景⽯が据えられている。

 庭園の北⻄部には、⾨があり、こみせに⾯している。⾨から池に⻄⾯する隠居部屋の沓脱⽯まで⾶⽯が配され、また、池の北⻄側には明治43年(1910)に建⽴された三代⽬鳴海⽂四郎の銅像がある。