2021年11月27日(土)、奏海の会が発足して初めての、市外散策ツアーを黒石市で実施しました。奏海の会会員9名が参加し、黒石市在住の鈴木・三浦両会員の案内で、雪の降る中をじっくり黒石を探索しました。
以下に、当日配布された鈴木徹会員の力作資料を3回に分けて、紹介します。
13.⾦平成園(澤成園)の概要
【名 称】 ⾦平成園(澤成園)
【所 在 地】 ⻘森県⿊⽯市⼤字内町2番1 同⼤字上町10番1 同⼤字上町10番10
【指定⾯積】 5662.32㎡
【指定年⽉⽇】 平成18年1⽉26⽇
【指定理由】 「⼤⽯武学流」の独特の作⾵を 良好に伝える優秀な庭園であり 主屋及び庭園を含む敷地の全体 が概ね良好に保存されている。
【詳細解説】
① ⾦平成園(澤成園)は、江⼾時代末期から近代にかけて、津軽地⽅ で数多く作庭された「⼤⽯武学流」の中でも優秀な庭園である。
② ⾦平成園は、加藤宇兵衛の求めに応じ、明治25年(1892)に第3 代⾼橋亭⼭が作庭に取りかかり、その弟⼦である⼩幡亭樹、池⽥亭⽉ などにより作庭された。
③ ⾦平成園の完成は、明治35年(1902)である。
④ ⾦平成園は、「万⺠に⾦が⾏きわたり、平和な世の中になるように」 という願いから、「⾦平成園」と名付けられたが、酒屋を営んでいた ときの屋号である「澤屋成之助」から「澤成園」、あるいは「沢成の ツボ」と呼ばれている。
⑤ 庭園の⻄側には建物3棟が並んでいる。所有者が加藤宇兵衛である ことから旧加藤家住宅と呼ぶことにする。
⑥ 旧加藤家住宅は、主屋、離れ、茶室からなる。
⑦ 庭⽯は、花巻村から採取したもので、庭師をはじめ、⿊⽯の⼩作⼈、 百姓らによって⾦平成園まで運搬された。
⑧ 樹⽊は⿊⽯藩家⾂境⽒の園内のサルスベリと⿊⽯の松を庭に移植 し、その他は埼⽟県安⾏より運搬して植栽している。
⑨ ⾦平成園の変遷は、加藤家所有の時期が続くが、料亭として利⽤さ れた時期がある。
⑩ 主屋の沓脱⽯から池の畔に打たれた礼拝⽯をはじめ、⼀群の景⽯か ら成る蹲踞や円錐形の巨⼤な守護⽯、また、築⼭には巨⼤な⽉⾒燈籠 や野夜燈の設置など、「⼤⽯武学流」の独特の作⾵を良好に伝える優 秀な庭園である。
⑪ ⾦平成園は、平坦地に上中下段の3つの池を中⼼にした池泉回遊庭 園で、園内には⾶⽯が座敷前の沓脱⽯から3筋延びている。
⑫ 古写真によると園内には2箇所の四阿箇所があった。四阿の内⼀ つはこの最奥部の築⼭上の野夜燈の東側に位置していた。
⑬ 名勝指定当時は、池泉は涸れていたが、給⽔源を確保するため井⼾ を掘り、池泉の景観復原が⾏われ、かつての景観を取り戻された。
⑭ 茶室同辺や敷地南部の庭⾨周辺にさまざまな種類のモミジが植わ る他、イチイやチャボヒバ、サワラ、低⽊としてはハイビャクシン、 シンパク等常緑針葉樹を中⼼とした景観が構成されており津軽独特 の景観を創出している。
⾦平成園(澤成園)・庭園
1.正⾨ ⇒ 通⽤⾨ ① ⾨ 構 え 旧加藤家住宅の⻄⾯に、正⾯⽞関と脇⽞関がある。 正⾯⽞関: 年2回、冠婚葬祭、正⽉、お盆の時 期に開ける。⼥、⼦供は勝⼿⼝から 出⼊りする。主⼈が開けない限り開 けない。 脇⽞関 : 来客⽤の⽞関である。 ② 前 庭 数個の⽯と松やツツジなどをあしらった⼩規模な庭を作庭する。前庭の定まった様式はなく、庭師に委ねられている。 ③ 横 庭 正⾯⽞関から本庭に⾄る通路に作庭された庭園。横庭のない住宅もあるので ⼤⽯武学流では必ずしも横庭があるわけではない。⾦平成園では横庭はない。
2.通 ⽤ ⾨ ⾦平成園の庭園に⼊る前に、通⽤⾨の前で⼀礼してから⼊る。⾨冠りの松(読み⽅:もんかぶりのまつ) ⾨冠りの松は、⽇本の伝統⽂化の⼀つである。松は、昔から松⽵梅と⾔われ、多くの福を運んでくれる縁起の良い⽊とされ、家族繁栄の祈念にも植えられている。 通⽤⾨・袖垣 通⽤⾨と袖垣は、古写真に基づいて復元している。袖垣の材料は葦(アシ)で組上げている。⾦平成園(澤成園)・庭園 1. 庭前の説明 ① 沓脱⽯から⾶⽯ 沓脱⽯は本来は⼈間が使うものではなく、神様が使うものである。神様が、お供え物をおろして座敷に⼊るときに、沓を脱いで⼊る。 沓脱⽯からV字に⽯を打っている。または、据える。※ 「打っている」、「据えている」は並べているという同じ意味。 ② ⾶⽯ (読み⽅:とびいし・別名、踏⽯とも呼ばれている) 2~3⽅向へ伸びた⽯、7個が基本。沓脱⽯から礼拝⽯に向かって配置される。 ⾶⽯は、7個が基本であるが、庭園の規模に応じて3個、あるいは5個の場合もある。例えば、鳴海⽒庭園は沓脱⽯から礼拝⽯までの⾶⽯は5個である。三・五・七という数字は、めでたいという意味がある。
踏分⽯: 茶⾅を使⽤している場合もある。4代⽬⼩幡亭樹、5代⽬池⽥亭⽉は、茶⾅を使⽤しないが、6代⽬外崎亭陽は、気分により茶⾅を使⽤するときもある。 踏分⽯に茶⾅を使⽤する理由は、不明。 ③ 礼拝⽯の説明 礼拝⽯は、⼤⽯武学流庭園の中で、最も重要な⽯であり、庭園の中⼼となる⼤切な⽯である。⼤きな⾃然⽯が使われており、中央の⾶⽯の筋(列)の⼀番奥に据えられる。神仏、菩薩を礼拝し、供物を供えるために設置する。従って神が宿っているといわれており、踏むことは許されない⽯である。 平らな⼤きな⽯が使⽤されており、庭園の眺めが⼀番いいところに据えられる。 庭園の鑑賞は、礼拝⽯の⼀つ⼿前の「踏⽌⽯(読み⽅:ふみどめいし)という平らな⽯の上に⽴って、四⽅を眺め庭園全体を鑑賞する。
別記1:昭和期に作庭された庭園の礼拝石は平らな石が多いが、明治時代に作庭された庭園の礼拝石は中央が盛り上がっているものが多い。
別記2:礼拝石の中には、池の護岸を兼ねて配石している庭園や礼拝石1個だけの踏み石庭も所在する。
別記3:拝み石(読み方:おがみいし)は、基本的に手水鉢の前に据えられる石のことをいう。そのため礼拝石と拝み石は区別されるものと考えられる。
別記4:6代目外崎亭陽は礼拝石について以下のように述べている。
「庭に神仏があるものとして祈願や、感謝、遥拝をする場合、供物をしつらえる三宝や、祭壇の役目を司る石のことであり、「庭中第一の石なり」と呼ばれる格調高いものである筈です。大ていは池のフチ石を兼ねて置かれるが、池と離れて置かれることもあり、一様ではないのですが、大切な事は数々ある踏石の中に拝石以上のものがあったり、拝石の先にまだ踏石が続けられた場合、最早これは礼拝石として失格で単なる踏石になって了うことです。」
④ 蹲 踞(読み⽅:つくばい) ⾃然の⼭形⽯に⾃然または⼈⼝の⽔⼝を空けている。周囲には⽟砂利を5~15㎝敷く。縁取には⼩型の⾃然⽯と焼丸太を3または、5、ないしは7と打つ。役⽯として前左か右に2⽯、後⽅に2⽯を据える。
⑤ ニ神石
自然石2個からなる。
※ 平成29年4月10日、金平成園・大石武学流庭園研修会の資料では、「沓脱石から右にはニ神石があり(客人島といい、自然石二石のことをいう)・・・」という表現があり、今井二三夫氏はここを客人島としている。
⑥ 客人島・主人島
普通は池の中に主人島があるが、金平成園の主人島は池の横にある。
※1: 平成29年4月10日、金平成園・大石武学流庭園研修会の資料では、「礼拝石の左を進むと主人島がある。赤松と大きな石を置き周りに乱杭を打っている。・・・・よその庭では見ることがない。」という表現がある。重森三玲は、この場所を客人島にしている。
※2: 金平成園の報告書の中に次のように述べている。
主屋座敷前の平坦地には、手水構え以外に護岸近くに2箇所、砂利(玉石)敷き箇所が配されている。『大石築山口伝記』『大石武学流庭造配石法』ではこういったものを「主人嶋」「客人嶋」「中島」と呼称している。それぞれの区別については以下のように記述している。
「客人嶋之事
端ニアル島を客人島ト云フ
奥ニアル島を主人島ト云フ
瀧下ニアル島を中島ト云フ
外ニ種々アルモ畧ス」
この2箇所の砂利敷き箇所は、主人嶋かどうかは不明であるが、ここに見える「嶋」にあたると考えられる。
2. 池の説明
当該庭園は、平坦地に上中下段の3つの池から成る。池の名称は特にないが、便宜上、「上段の池」、「中段の池」、「下段の池」、或いは「東池」、「南池」、「西池」と呼んでいる。
敷地中央部の広大な池は、昭和13年の重森三玲の実測図によると上段の池がさらに東側に延びていた。平成23年度工事の際、上段の池の東辺の一部護岸が堆積土撤去の際に検出され、良好な状態で遺存している。かつては、この東辺護岸は敷地外から引いた貯水池に連結していた。この貯水池は園池の給水源で、そこから池に流入した水は、高低差のある上段の池から下段の池、中段の池から下段の池へと水落ちの景色を演出しながら流れ落ち、下段の池南西部の水路を経て敷地外へ排出されていた。金平成園の保存修理工事の際、池の井戸水による給水源確保により、作庭当時の景観に復元されている。
① 蓬莱石(ほうらいせき)
上段の池の中に自然石で一石の岩から成る蓬莱石と呼ばれる石がある。
② 真木(しんぼく)
庭園の中で中心になる木。
4. 築 山
① 涸 瀧
実際には水が流れていまいが、玉石を配して水の流れを形成している。そのため、涸れ滝と呼ばれている。大石武学流庭園では沓脱石と礼拝石と涸滝が一直線に配されている。
② 三神石
③ 野夜燈(やどう)
一般的に石燈籠は、かさ、めがね、受け、皿、台座の5箇から成るが、野夜燈は、すねがさおと台座を兼ねており、すね、うけ、めがね、かさの4箇から構成されている。また、また、一般的な石燈籠はパーツすべてが加工されているが、野夜燈はめがね以外に自然石を使用しており、見た目が無骨であるのが大きな特徴である。
5. 南東側平場
① 遠山石(えんざんせき)
庭園に配置されている立石のことで築山の上部で使われている遠山を抽象的に表現するために使われる。庭の最奥部に据える守護石。小型で岩木山の姿をしているのを佳しとする。遠山石としては金平成園に勝るものはなしと言われている。樹木や石に遮られ、見えつ、隠れつが良く遠山石全体を見せるものではない。俗に「神様石」や「かたまし石」とも呼ばれている。
②
遠山石と二個で一つの景色を出している。正式な石の名前は不明であるが、①の遠山石と一緒に庭の最奥部に据えて守護石の役割をしている。
6. 南 側 築 山
① 涸 瀧
茶室から眺めた時に正面に入ってくる瀧である。小幡亭樹が築蔵したと推定される。
7. サルスベリ
明治15年に加藤宇兵衛が沢屋成之助の隠居所を探し求めていたときに、黒石藩の陣屋の敷地と武家屋敷を手に入れた。その中に、境形右衛門の屋敷が含まれている。屋敷の庭には「サルスベリ」が植えられており、金平成園を作庭する際にこの「サルスベリ」を残している。
加藤宇兵衛は、サルスベリの花の付き具合によって豊凶を知ることができという。花が多く咲くと田が実って大安心。お盆にかけて稲の穂が出るときに花が咲き、稲が生育するときサルスベリの花が散る。サルスベリを見ながら、稲の豊凶を知ることができた。
旧加藤家住宅・主屋
1 規 模
一階 343.385m
二階 46.969㎡
延面積 側柱真々内側面積 390.354㎡
2 構造形式
概 要 主部桁行10.64間(20.312m)
梁間6.6間(12.672m)
入母屋造、妻入、鉄板葺、西正面建
3 調査事項
① 柱間寸法
1間=六尺三寸:1910㎜
② 屋 根
ヒバ柾長さ8寸、葺足1寸5分で洋釘止めとなって上に亜鉛メッキ鉄板菱葺を載
せている。
③ 建 具
「和室十九・五畳」と「和室十五畳(1)」の板襖には、金箔が貼られている。「和室十二・五畳」と広間の板襖には、野沢如洋による襖絵が描かれている。「和室十五畳(2)」の南側には、前川文嶺、北側には藤原某の絵が描かれている。欄間は、透かし彫り欄間や雲障子などが嵌め込まれている。
④ 仏 間
・ 仏間の壁は、銀箔張に墨絵の障壁画となっている。
4 建築年代
棟札に「棟領吉野弥七郎 維時明治36年旧9月16日当主加藤宇兵衛」と記されている。
旧加藤家住宅・離れ
1 規 模
面 積 側柱真々内側面積 98.28㎡
延面積 側柱真々内側面積 98.28㎡
2 構造形式
概 要 主部桁行七間(13.370m)
梁間三間半(6.685m)
一重、切妻屋根造、鉄板葺、主屋南に接続、東および南に半間幅の庇付き。
3 調査事項
形式技法
① 柱間寸法
一間「六尺三寸」(1910㎜)
□4 建築年代
棟札に「明治40年10月11日」、「当主加藤宇兵衛」、「棟梁 吉野彌助」の名前が記されている。しかし、この棟札は離れの二階屋根から検出されていることから二階部分が建てられた年代が明治40年10月11日である。平屋建の離れについては、建築年代が定かではないが、旧加藤家住宅の経緯や古写真から主屋と同時期と建てられたものと推定される。そのため離れの建築年代は、主屋と同じ明治36年と考えられる。
旧加藤家住宅・茶室
1 規 模
延面積 12.49㎡
2 調査事項
① 平面計画
桁行二間一尺三寸、梁間二間の矩計で、「茶室」の東に「濡縁」、南に板場(当初は濡縁)」、西に「床の間」・「押入」を設ける。
② 柱間寸法
一間を「六尺三寸」(1910㎜)とする。
③ 建 具
蓑虫山人の襖絵が存在する。
5 建築年代
茶室からは、棟札や墨書書きが発見されていないため建築年代は定かではない。しかし、古写真から主屋、離れと同時に建築されたと考えられる。そのため、建築年代は、旧加藤家住宅主屋、離れと同様明治36年と推定される。(以上、完結)
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