戦争当時伯父さんは浦町駅の駅長をしておりましたので、浦町駅近くの官舎に住んでいたそうです。
昭和20年7月28日は、疎開先から青森に帰って来る乗客が多くて、各駅停車の列車はどの列車も満員状態だったそうですが、夜になってから遠方に向かう急行の夜行列車などは止まらない駅だったので、官舎に戻り少し体を休めていたころに空襲警報のサイレンが耳に入ったそうです。
伯父は急いで制服と帽子をかぶり駅に走って行くと、そこに止まらないはずの急行列車が止まったそうです。東北線はまだ単線だったので、先に通過させる列車があるのだと思っていたら、突然敵の飛行機が急降下をして来て列車に機銃掃射をしたそうです。乗客たちは慌ててホームに逃げだしましたが、ホームの屋根を貫いて弾丸ば飛んでくるので、列車の下をくぐり抜けて、駅と反対側の田んぼの水路にうつぶせになって隠れたそうです。
そうしていたら空一面に敵の大きな爆撃機のB29がいっぱい飛んで来て、自分たちの頭上から焼夷弾をバラバラバラバラ落とし始めたそうですが、田んぼの水路に寝そべりながらその奇麗さにあっけにとられて見入てしまったそうですが、それが街にボタボタと落ちて来て火事になり、人々が一斉に悲鳴を上げながら逃げ惑う光景を目にして、「これが戦争なんだ。」と我に返ったそうです。そして自分は立ち上がり、駅をめがけて逃げて来る住民達を田んぼの方に誘導をして、泥まみれになりながら青森の街が燃え落ちるのを見ていたそうです。
官舎は焼けたそうですが駅と列車は残ったので、次の日の朝に列車を走らせる連絡をして停車中の列車を仙台方面に向かわせたそうです。自分の命より任務の方が重要だったと言ってました。(絵・聞き書き:張山喜隆/平成29年5月4日)
最近のコメント