◆幼稚園そして国民学校
寺山が逝ったのは34年も前の1983年、私の母と同じ年だった。ここに寺山との関わりを書くに至ったのは、6月に行われた『北の街社55周年祝賀会』の際、斎藤社長との会話の中で寺山とご縁があった話をしたことによるものです。

青森県近代文学館が出来た頃、郷土の著名作家3人の紹介イベントがあり、寺山の名に興味を持ち覗いてみた。その時に私にはどちらでもよいことではあったが、私のマリヤ幼稚園時代の卒業写真に寺山でないY君に寺山だと矢印があったことを係員に告げ立ち去ろうとしたら、上司のK氏に呼び止められ寺山との関わりを話した。私は5歳でマリヤ幼稚園に入園し、藤林先生のクラスで各自の持物には色と形で見分けがつくようにシールを貼った。私の選んだのは黄緑と形は飛行船で、その時代飛行船を選んだことにはご満悦たったことを覚えている。

寺山はこの年に父の出征により八戸から青森へ、マリヤ幼稚園には中途入園だった。ここで思い出すのが1982年発表の詩『懐かしのわが家』の浦町字橋本だ(現橋本のNTT南東の場所)。寺山はここに住んでいたのではないか? 寺山の母の記録ではT氏の妻の実家が青森にあり、そこの二階に間借りしそこからマリヤ幼稚園に通ったとあり、橋本国民学校4年生の青森大空襲まではここ。彼の生涯を通して浦町字橋本はこの場所しか考えられないからなのだが。

私は1936年(昭11)青森市浜町五丁目の中三中村旅館に長女の第一子として生れた。父は入り婿で後に離婚、母も私が国民学校に入学直後に再婚して大陸に渡った。したがって私は祖父母に育てられた親なし子であった。

◆浜町五丁目
浜町五丁目は戦前21メートル道路の五分の二あたりに、横に小川が流れねむの本の並木があり、ラオ屋(キセルの修理)や教会の尼僧の通る賑やかな町で、南に向って西から東北タンク商会、自宅、長谷川質店、中三中村旅館、久保竹輪工場、三輪屋(料亭)、小館木材㈱、北向きには西尾酒店、東北タンク自動車修理工場、旧自宅、柴田写真館、文化劇場などが立ち並び、夕方ともなると浜町の見番から料亭に通う芸者さん達の往来も子供心に粋なものに見えた。

◆中三中村旅館のこと
わが家の歴史を辿ってみると、代々から仏壇にある古文書に中村五郎宛の幕府から授与された「春申」(感謝状らしいもの)なるものがある。それには享保13年(1728)9月28日付で、越後国蒲原郡吉田(妙音山本気寺)達弁院日殊代とあり、私は新潟県吉田町の本気寺を訪ね調査したが、その内容はよく解らずじまいだった。

初代中村三郎司は、記録が残っておらず、天明か寛政年代(1780年代)の生れと推測出来る。明治の初め頃、新潟よりいくばくかの財を持ち来青し、旅館業を始めたようで、看倉弥ハ著『青森市町内盛衰記』によると、中三中村旅館は明治6(1873)年頃は津軽藩奨励の旅館として営業していたようだ。

二代目中村三郎治からは戸籍も出来、二代目は文政2年(1819)12月28日石川県加茂鄙見立村(現在の佐渡、石川県の図書館に問い合わせたら当時佐渡ケ島は石川県の領地だった)に工藤忠左衛門の二男、忠吉として生れ、弘化元年(1844)3月1日、25歳で養子縁組し中村忠吉となるが、十代の頃から中三中村の奉公人だったようだ。その十年後、安政元年(1854)3月17日に私の曾祖父兼次郎が新潟に誕生している。忠吉は明治15年(1882)10月6日に二代目に家督相続し、その後長男兼次郎を青森に残し、初代・二代目共商売の拠点を函館へ移した。

曾祖父の建立した中村家の墓には三郎司の改名がなく私も疑問視していたが、1980年代、その北海道に移住した子孫からの連絡で、中三の墓は函館市の寺町通りの実行寺にあると聞かされ、羽田から一飛びし確認した。(つづく)

※青森市のタウン誌「北の街」2017年10月号に掲載されたものを、執筆者の中村慶一さんの許可を得て掲載しました。記して、中村さんに感謝申し上げます。