筆者は、平成24年春、ひょんなことから「青森古写真探偵団」の代表に担ぎ上げられた。そこで、夏の暑い盛り、以前から情報をもらっていた青森市古川にある古書店林語堂―木村宏さんの書庫探索に出かけた。若い団員の協力をもらって、およそ200冊はあろうかというアルバムの山に立ち向かった。アルバムの多くは家族写真などであったが、丹念に探索を続けていくと、無造作に束ねられた名刺サイズの白黒写真が出てきた。同じ場面の写真が複数枚あり、青森コロンバン創業者で写真マニアだった故木村廣治さんが手焼きしたと思われるものである。還暦を過ぎた筆者の眼には、小さなサイズの写真はつらいものがあったが、一番先に目についたのが独特の風貌を持つ版画家棟方志功さんの姿であった(写真1)。棟方志功さんの隣で、何かを指さしている人はどうも、慶応大学の考古学者―清水潤三先生のようだ。また、右側で同じように指さしている人物は?文化財保護に尽力した医師の成田彦栄さん!ということは、どこかの遺跡を発掘調査している場面の写真ではないかと直感した。
それでは、いつ、どこで撮影された写真なのか?色々な方面に当たってみると、棟方志功夫妻を案内したのは、当時、青森県立図書館に勤務していた三上強二さんであることが分かった。慶応大学が青森市三内丸山遺跡を初めて発掘調査した時に、案内したとのこと。慶応大学の発掘調査は合計4回行われていて、初回は昭和28(1953)年10月24日から26日までの3日間行われている。この時は、縄文時代前期の住居跡の一部に当たり、多数の復元可能土器などが出土している。第2次調査は、昭和30年8月17日から19日までの3日間。第3次調査は、昭和31年8月9日から12日までの4日間。第4次調査は、昭和33年8月5日から11日までの7日間である。
仮に三上さんの証言にあるように、志功さんを案内したのが第1次調査の昭和28年10月であれば、写真に写っている人達の服装は、麦わら帽子をかぶったり、半袖の人もいたりと、秋には似つかわしくない、むしろ真夏を思わせる装いである。棟方志功の昭和28年秋の動きを年譜で追いかけてみると、その時期には棟方は青森に滞在していなかった。初回調査時に案内したというのは、どうも、三上さんの記憶違いの可能性が高そうだ。それでは、残る第2次から第4次調査のいずれに該当するのであろうか。残念ながら、棟方の年譜等からは、撮影年を特定できる確たる証拠には行き当たらなかった。その他、写真に写っている人達を考古学関係者に見てもらうと、写真3の左端は青森市立第一高校(現青森県立青森北高校)教師の小野忠明さん、写真4の中央は郷土史家の肴倉弥八さんであることが判明した。このように、古書店林語堂さんの書庫にひっそりと眠っていた写真群は、三内丸山遺跡初の学術調査を映像で伝える貴重な資料となった。
ところで、三内丸山遺跡を全国的に広く知らしめたのは、明治時代に東津軽郡内の遺跡調査を行った角田猛彦(1852~1925)であるが、彼は筆者の妻の曾祖父に当たる。そのような奇縁が今回の写真発見に導いてくれたのかもしれない、と思ったりもしている。また、角田猛彦は、青森市細越で生まれたとの記述が散見されるが、親戚筋によると弘前市五十石町の生まれで、菩提寺は弘前市禅林街にあることを付記しておきたい。
この小文を書くに当たり、福田友之氏、遠藤正夫氏、成田滋彦氏、秦光次郎氏、斎藤岳氏、池田亨氏、木村宏氏、川村真一氏、肴倉宏太氏からは、種々のご教示をいただいた。末筆ながらここに記して、感謝の意を表します。(相馬信吉・「泥人形」第2号 2013年)
参考文献
市川金丸(1996)「三内丸山遺跡の調査の歴史と周辺の遺跡」『三内丸山遺跡Ⅵ』青森県埋蔵文化財調査報告書第205集
遠藤正夫(2006)「考古学研究の歩み」『新青森市史 資料編1 考古』青森市
福田友之(2011)「三内地区の遺跡調査史」『新青森市 通史編第1巻 原始・古代・中世』青森市
棟方志功全集(第12巻)雑華の柵(1979)
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