青森大火は、1910年(明治43年)5月3日に青森県青森市で発生した大火。青森は過去に繰り返し火災に見舞われているが、中でもこの火災は空前の惨事と言われた。13時ごろに安方町の菓子製造工場から出火して風に煽られて燃え広がり、4時間半後になってようやく鎮火した。大火により死者26名、負傷者160名、焼失家屋5,200戸以上に達した。青森歩兵第五聯隊は兵士350人を出動させ、破壊消防を命じた。全国から義援金が寄せられ、明治天皇・皇后からも罹災者救恤金1万円が下賜された。(ウイキペディアより)

「刻まれた記憶」 高木恭造(大正5年 橋本小学校卒業)

 私が母校橋本小学校時代を回想して、未だに強烈に記憶づけられているのは、一年生として登校の当初、明治43年5月3日の青森大火である。 校舎は未だ高等小学校を借りていたので一年生の登校時間は午後であった。校舎は勿論現在の位置で、道路のすぐ傍の体操場で遊戯中に「火事だ、安方火事」との叫び声が聞こえ、向い側の専売局公舎の屋根の上に人々が上がって西の方を眺めているのが窓から見えていた。それから間もなく「蓮華寺(ホケジ) 火事」だとの叫びになり、人々のあわただしく馳ける足音がはげしくなった。ひどく風の強い日だったので、寺は飛火で燃え出したのだろう。

 騒ぎが一層大きくなった時だった「さあ、早く家に帰るのだ」との先生の声に私達は「わぁっ」と馳け足で外に飛び出した。

 その時はもう道路に煙が流れて来て居り、煙に混って藁屑の燃えたものまで飛んでくるのだ。寺はカヤ葺きだったからである。私はすぐ米町に出て、真直ぐにわが家に向かった。 しかし、わが家の近くの蓮華寺通りの角まで来た時だった。あまりにすごい煙で、わが家がもう燃えているのだと感違いし、そこから大町へ曲り、浜町へ出て堤川の方へ走ったのである。

 ところが堤川まで来て橋を渡ろうとしたら、 飛火がひどく降ってくるので恐くなり、 川尻りに出て袴と着物の裾をたくり上げて川に入ろうとしたら、近くにいた屋根のかかった船から「この船に乗れ!」と声がしたので船の中に入ると、避難者で一杯だった。私はその中に混って川向うの岸に建ち並んだ大きな家(当時は遊廓だった)がつぎつぎと燃え崩れてゆくのを眺めていた。

 やがて夕方になると、私共は岸近くの小屋に移されていた時だった。 私を探し廻っていたわが家の車夫に見つかり、車夫の背中におんぶされて、まだ燃えくすぶっている街中を通り抜けて、家の者たちの避難先である柳町のはずれにあった「鎌重」の長屋へ行ったのである。火事の始めに家から女中が、私を迎えに出たのだが行き違いになったのだ。その日は父が大鰐へ往診に出掛けて居り、留守を預かった母は最後まで人々に私の行方を探して貰っていたのだが見つからず、半ばあきらめていたらしいのだ。それで私が長屋で母に会った時、私を見つめる母の顔つきが、奇妙で、間の抜けたようになっていたのに気づいた。母は、私がもう死んだものと思いこみ、それが頭に来ていたのだろう。

 それから母は床につくようになり、容態は日に日にすぐれず、その年の12月の末近くだった。私は家に呼ばれて学校から馳けつけた時は、母はもう眼を落とすところだった。 家の者たちは母の床の廻りに集まって居り私を見ると「お母ちゃんと呼んで」と言われ、私が母を呼んだら、母はもう見えなくなっている眼に一滴の涙を浮かべたまま、息を引きとったのである。これが私の人生の大きな曲り角になったのだ。(創立百周年記念誌「はしもと」1977年より)


焼失範囲
土蔵が燃えている光景
安方町火元付近
青柳橋の惨状
青森商業銀行の惨状
青森県庁近くの東奥・陸奥両新聞社焼失の惨状
焼失を免れた青森市公会堂
罹災者の仮住居
罹災者への食糧供給(使用写真:青森県史編纂資料他)

明治 43 年(1910)5 月 3 日に発生した火災は空前の惨事でした。この日は乾いた強い西風が吹いており、午後 1 時少し前に安方町から発生した火は暴風に 煽あおられて飛び火、国道の北側から海岸付近までの大部分と旧線路通り北側の一部、さらに堤川を越えて対岸の柳原遊郭(現港町付近)を焼き尽し、ようやく4時間半後に鎮火しました。この大火で、民家のみならず市役所、市立病院、郵便局、郡役所、警察署、市立図書館などのほか、学校では新町尋常小学校および 4 月に移転したばかりの橋本尋常小学校、社寺では善知鳥神社、事代主神社、安定寺、常光寺、蓮華寺、蓮心寺、さらに聖アンデレ教会、メソジスト教会、日本キリスト教会、天主公教会、ほかにも新聞社・銀行など多数の建物が失われ、旭橋、石森橋も焼失してしまいました。

しかし、青森歩兵第五連隊の活躍でいくつかの公共施設が類焼を免れ、師範学校、青森中学校、青森高等学校、浦町尋常小学校、長島尋常小学校、青森商業学校、公会堂、朝日座、正覚寺、光明寺が避難所になりました。新聞によれば、師範学校の生徒たちが家財の運び出しや防火消火のみならず、避難所での食糧の分配にも大いに尽力したとあり、若い力が大きな助けになったことがわかります。(「あおもり歴史トリビア」第157号)