(一) はじめに
 八甲田山雪中行軍は、二百十名中百九十九名凍死の〝凄惨な大遭難事件”の印象が格別強い。

しかし、それは陸軍歩兵第五連隊(青森)のことである。一人の落伍者もなく生還した歩兵第三十一連隊(弘前) は印象が薄い。

 これら二つの行軍は「生還の明」、「遭難の暗」とも言えよう。しかも、時と所が同じ明治三十五年一月二十日からの八甲田連峰である。この行軍の目的は、当時の国情から対露国との戦いを想定しての耐寒訓練だった。

 極寒の露国での戦争、本州最北の青森が海岸封鎖の場合、八甲田の山越え退散”も含めてだった。三十一連隊は雪地獄の八甲田山行軍踏破距離二百二十㎞、十一泊十二日の計画だった。予期した如く二年後の二月、日露戦争が勃発した。

(二) 行軍中の加賀二等卒
 「明」の歩兵第三十一連隊福島泰蔵大尉率いる三十七精鋭の中に、甲地村(東北町) 字大平 (通称千曳) 一番地二十八の加賀竹松二等卒=ラッパ手がいた。

 千余名の中から厳選された最精鋭は傑物だったことは論を待たない。時に二十二歳、訓練上の研究目的は「寒冷地に於けるラッパ吹奏」だった。

 史家の故小笠原孤酒氏によると、一月二十日早朝零下五度、横なぐりに吹く烈風の中、弘前屯営を出発、約八里半行軍、宿営の地を小国部落にとった。多くの兵は疲労による熟睡だったが、加賀二等卒は隊長の横に寝たため、緊張のあまり眠れなかった。

 翌朝零下四度の中に全員整列、宮城遙拝、軍人の五箇条奉唱後、翌日の行軍経路変更が伝達された。井戸沢を切明温泉に変えるという竹舘村村長のすすめであった。

 ・・・屯営早朝の起床ラッパは格段の趣だったが、それは連隊一のラッパ手加賀二等卒吹鳴だった。ラッパの吹奏には師団長閣下も従い、戦場に赴くときはラッパの優劣で味方の将兵の士気が決まる。 加賀二等卒は入隊以来、まじめ一本で通ってきた男で成績も抜群。「昨日も小休止のとき、一生懸命吹奏の練習をしとった、手牒に記入しておいて進級も考慮してやり給え」と上官の声だった。

 ・・・「行軍中無駄口の者が数名いた、身に覚えのある者一歩前に出ろ。」一歩前に出た者が十九名もいたことに隊長は立腹した。列一番左の加賀ラッパ手に向かって「無駄口は何だったか言ってみろ。 「ラッパ吹きを覚えやすい文句の符牒で一人で口ずさんだのです・・・点呼だ点呼だ、週番下士官、週番士官、週番士官よ週番士令に報告したか、以上であります。」と答えると「それは無駄口にならん、お前の職務熱心がそうさせたのだ、お前に限ってそんな戯けた事をする筈がないと思っとった。」「今朝お前をほめたばっかしだった、一歩下がれ!加賀二等卒の無駄口は手牒から消してやれ。」(以上小笠原氏)・・・宿営地は、二十日小国、二十一日切明、二十二日十和田、二十三日宇樽部、二十四日戸来、二十五日三本木、二十六日田代平、二十七日田茂木野 二十八日青森、二十九日浪岡。 三十一日は弘前屯営に帰還した。日程は右のとおりで書くに簡単だが、行軍途中の気象は猛吹雪、極寒、天候急変で立ち往生等、筆舌に尽くし難い地獄の行進だった。特に二十六日の猛吹雪をついて出発、田代平鳴沢あたりで大遭難の五連隊にすれ違っている。

 絶え間なく襲う睡魔と猛吹雪に三十一連隊も遭難寸前だった。大惨事の五連隊とは裏腹に、三十一連隊は全員無事生還だった。しかし何故かこの行軍の栄光は、昭和初期まで公表されなかった。

(三) 日露戦争と加賀ラッパ手
 雪中行軍成功後、加賀ラッパ手は日露戦争へ、日本陸軍は黒溝台をはじめ大苦戦、しかし大きな犠牲を払いつつも勝利を手中にした。加賀ラッパ手は勲功により、金鵄勲章の栄誉に輝いた。

(四) 退役後の加賀氏
 大平地区一帯は、野辺地の豪商立鼓一(りゅうごいち)の土地だった。その山林や土地の管理人とし才覚を発揮した。借地・小作人等の年貢の取り立てや宅地の区分割当なども。三男辰雄氏(加賀工業社長) 談「幼少の頃、立鼓一の五十嵐帳場員が、年貢米を馬車に積んでいった記憶がある。」

 明治四十三年東北本線千曳駅が開業した。 通野辺地合同運送合資会社千曳営業所長となり、運送事業にも貢献した。また、大正十四年五月より甲地村議を一期務めるなど村の名士だった。

(五) 加賀翁の生涯
 天間林村野崎の加賀子之助、ハツの四男として明治十三年五月五日出生。陸軍の勲功、才覚ある土地管理人、運送業へ敏腕をふるった加賀翁は、地域の人々には〝加賀のオッチャーオドッチャの転訛〟で親しまれ、頬のこけた長身痩軀の大男だった。

 因みに映画「八甲田山」の加賀ラッパ手役の俳優は、中背だったが、映画監督は〝長身”までは考証が及ばなかったであろう。

 軍歴等偉大な経歴を残して、昭和二十六年六月三十日七十一歳の生涯を閉じた。 法名・新飯元俊峰良英善居士、千曳の墓地に永遠の眠りを続けている。また三男六女の子宝に恵まれ、三女はなさんは川崎で静かに余生を送っている。が、夫君の戸谷庄三氏は皇官警察官時代の昭和三十四年、皇太子・美智子妃殿下結婚パレードの際の騎馬の護衛官を勤められた。

 五女世恵さんの長男英明君の結婚披露宴で筆者の私へ戸谷氏談「沿道は熱狂的な歓喜の小旗、嵐の如きどよめきに馬は驚いて後ろ向きにならんばかり・・・窮した。」警視庁警察学校教官等警視正で退職、数年前に他界された。

(六)類まれな指揮官福島隊長
 雪中行軍を見事成功に導いた福島大尉は、義山の称号で漢詩に秀でた文才の軍人だった。群馬県に生まれ、明治三十八年一月二十八日日露戦争黒溝台で戦死、時に四十歳。 弘前報恩寺で八師団葬を執行。風流真摯な古武士、雪中行軍王、日本陸軍の逸材だった。

(七) おわりに
 八甲田山雪中行軍は二百十名大隊編成の青森五連隊、三十七 う名小隊編成の弘前三十一連隊、と比較されるが兵員の大小と関係がない。

 世に無謀〟と〝慎重”とか、地元案内人の〝諾否”の相違など多くの憶測や論評がある。ともあれ、加賀竹松氏は雪国の我らに、生死の極限の尊い指標を残してくれた。

寄稿者 藤田友志(東北町教育委員) 「広報とうほく」 平成12年1月号