1ヶ月ほど前から、弘前城の南側に当たる住宅街の一角で、「忍者屋敷」ではないかとみられるお屋敷が発見され話題になっています。ことの発端は、青森大学薬学部に今春、大学公認の「忍者部」ができたのが報道され、伝「忍者の家」の現所有者である、青森市在住の會田秀明さんが大学に情報提供したことによります。

弘前市内にある伝「忍者の家」内部。 撮影:會田秀明氏

弘前市内にある伝「忍者の家」内部。 撮影:會田秀明氏

経緯など詳しいことは、すでに多くのマスメディアを通じて全国報道されたので省きますが、かつてこのお屋敷に住んだことのある會田秀明さんの奥様である美喜さんから、以下の様な手記をお寄せいただいたので、ご紹介します。

「昭和28年に母が購入し、私が小学校6年の時に引っ越しした家は、忍者の家という言い伝えがある。

その家は茅葺の平屋で、東と南の縁側には雨戸があった。障子の多い家で、母が「障子張りは一仕事だ」とこぼしていた。

庭の東の角に杉が数本、その前に庭木が植えてあった。湿った庭や緑の下には、カエルが飛び跳ねていた。南側の斜面には、今も里山の植物が見られる。春咲くキクザキイチゲやヤマイヌワラビ、ヤマヤブソテツなどのシダ類他・・・。北側には畑、隣家の境に梨や空木があった。

ここはかつて、重森山(しげもりやま)という小山があったが、お城を見下す高さがあり、城内を監視されるというので、元和元(1615)年に山頂を平らにした一角であるという。里山の植物は、その名残のものであろう。

父母が逝った後、今から15年ほど前になるが、甲賀忍者の関係者が来られた。甲賀で忍者サミット全国大会を開催するので参加して欲しいとのことだった。このときは、「引っ越ししてきた者で」とお断りした。

家の中は、普通の家には見られない構造になっている所が二カ所ある。二つの部屋の床の間の裏に、人が入れるスペースが有るのだ。

津軽藩では、早道(はやみち)の者=忍者が明治2年ごろまで居たという。主な仕事は、情報収集であった。しかし、世渡りのため、漢方薬を作ったり、他の仕事を兼ねている者もあったようだ。気転のきく、胆力のある者が多かったのではと想像を巡らす。

今、青森大学の清川教授が興味を持たれ、調査を進めている。歴史書や古文書で調べている方もあるとか。

筆力のある人が、「津軽藩早道の者、その後」などど題し、まとめて本にしたら面白かろうと考える。また古い家であるが、改修し、役立てられたらとも思う。」(會田美喜)

 

(青森まちかど歴史の庵「奏海」の会:青森太郎)