太平洋戦争中の焼夷弾攻撃への消火方法は、バケツリレーで水や砂をかける、竹箒(たけぼうき)で火の粉をたたくなどでした。しかし、アメリカ空軍大型爆撃機B29の空襲には全く役に立たず、逆に犠牲者数を多くしました。昭和20(1945)年7月28日の青森空襲も例外ではなく、青森市の90%が焼失し、1000人以上の市民が犠牲となりました。
なぜこんなに大きな犠牲が出たのでしょう。それには稚拙な消火方法に加えて、市民に郊外への避難を禁じ、居住地での防火を義務付けた「防空法」の存在があげられます。防空法は昭和12(1937)年に制定され、昭和16(1941)年の改正で①都市からの退去禁止②消火義務が追加され、違反者に対する罰則が強化されます。同時に、日本全土の防空を一元指揮する陸軍防空総司令部が設けられ、同年12月に二代目司令官に皇族で陸軍大将の東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや なるひこおう)が任命されています。これに伴い、全国規模で防空展や防空訓練が行われ、東久邇宮稔彦王が、昭和17(1942)年6月9日に青森市を訪れ、新町商店街の防空訓練を視察しています。罰則を強化した防空法と防空展の開催、防空訓練の強化、最高責任者による視察と激励は、結果的に市民の避難を禁じ、犠牲者数拡大につながりました。(青森まちかど歴史の庵「奏海」の会・今村 修)
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