私は若い頃ヘビースモーカーでしたが、妻が妊娠したのを契機に、たばこを吸うのを止めました。約40年前のことです。勤め先では、机の上に灰皿が置いてあり、時間に関係なくたばこを吸っていました。今では考えられないことでした。

 それを遙かに遡る戦前ともなれば、成人男性の喫煙率は更に高かったようです。私の祖父、父共に喫煙者でした。たばこに火をつけるために欠かすことができないのは、マッチです。そこでお店の宣伝用に、明治初期から四角のマッチラベルの狭いスペースに、趣向を凝らした多色デザインのマッチラベルが登場しました。

 1945年の青森空襲で戦前の貴重な資料の大半を失った青森市では、特に戦前のマッチラベルは往事の市民生活を知る貴重な歴史資料となります。次に青森空襲前に、マッチラベルコレクションを郊外に疎開させていた、柿崎勝さんのお父様の資料から、青森市内のお店の見ていきましょう。(相馬信吉)

 夜、常設館(青森駅前にあった映画館)を出ると、「パリジャン」(写真1)の紅いネオンが特に目を惹いたものでした。新町小学校(すぐに国民学校となったが)学友のN君の家でした。学校帰りによく遊びに行きましたが、店内に入るとじ~んとカレーの激臭がしたものでした。壁にはハイカラな観たこともない珍しいポスターが貼ってありました。調理場を過ぎて、居間の方に行くとピアノが置いてありました。

写真1 パリジャンのマッチラベル

 N君のお姉さん(写真2)は、学芸会でピアノ演奏やソプラノで歌っていましたが、面長な美人で、その後に藤原歌劇団のプリマドンナとして活躍されていたのでした。N君も、「シャレット」(洒落た人をもじっていたが)というファッション・ショップを持ち、服飾デザイナーとして、映画やTVの衣装を担当し、学友仲間では異色の存在でした。芸能一家なのです。

写真2 N君のお姉さん

 幼時の想い出としては、N君がシャンソンのレコードを聞かせたり、ロシヤのドンブロスキー(ドストイフスキーのこと)の話や、津軽弁での猥談などをして、ひときわ「マセタ少年」でした。「パリジャン」は大人たちにとっても、子供にとっても楽しい思い出に残る場所でした。(大柳繁造:三沢航空科学館館長)