第二次世界大戦の末期、日本政府がポツダム宣言(昭和20年7月26日)受諾を黙視(拒否)した7月28日の夜、青森市は、米軍B29爆撃機62機(1機は投弾失敗)の空襲をうけ、22時37分から23時48分までの71分間に、新型のM74焼夷弾38発を束ねたE48焼夷収束弾2186発(83,000本)の投下により一瞬で、市街地の90%が焼き尽くされ地獄と化した。昭和20年11月の第一復員省の発表では、死者1,018人、重軽傷者255人、焼失家屋15,111戸、罹災者70,166名(青森市事務報告)と北日本最大の被害が報告されています。

青森空襲翌日の青森市堤界隈の惨状

 
 被害を大きくした理由は、
① 7月14、15日の米軍艦載機による青函連絡船攻撃を目前にして、市内から避難・疎開する市民が続出し、県知事は当時の「防空法」に基づき、7月18日に「・・断乎たる処分を取る」と声明を発表し、青森市が7月21日に「逃避者は、28日までに復帰しなければ・・配給を停止する」と布告し、市民はびっくりして続々戻った夜に空襲が行われた。この「禁じられた避難」が被害を大きくした。
② 空襲の前日、米軍が空襲予告のビラ6万枚をバラ撒きましたが、警察などにより回収され、多くの市民は読むことが出来ず、警告が無視され避難が出来なかった。
③ 空襲の際は、バケツの手送りや箒での火たたきの消火が義務付けられ、最後に防空壕への避難が許されていましたが、この全く無力な防火義務を守ったこと。その結果、死者の84%は防空壕でした。

青森空襲予告ビラ

 青森市を空襲したB29は、航続距離確保のため、狭い飛行場の硫黄島発進となり、編隊は半数の65機で、この機数不足分を補うため、殺傷力と火力を強めた新型のM74焼夷弾を投下した。(戦後、米軍戦略爆撃調査団は、青森、東京、名古屋、今治,明石、八王子、宇部、大分の8都市を詳細に調査し、青森の調査報告書では「・・有効な兵器である」と報告しています。1945年(昭和20年)7月26日に出されたポツダム宣言を28日に拒否(黙殺)と発表し、その夜に、青森空襲が行われた。ことなどを上げることが出来ます。1944年(昭和19年)6月16日、B29爆撃機が最初に北九州を爆撃した際は、軍需施設を目標にしていましたが、次第にエスカレートし、無差別絨毯爆撃に変わり、敗戦の日まで延べ34,790機が353回にわたり、約16万トンの爆弾・焼夷弾を約200の都市に投下し、家々を焼き払い、死者数は約50万人超え、その多くは非戦闘員の女性や子ども、高齢者で、空襲の残酷・悲惨さ恐怖を物語るもので、青森市も例外ではありませんでした。

青森空襲後の善知鳥神社付近

 第二次世界大戦は、8月14日にポツダム宣言を受諾して終わりましたが、7月26日に出されたポツダム宣言を、同28日には拒否をして、その後、受諾するまでの間、青森市をはじめ多くの地方都市が空襲で焦土と化し、広島と長崎に原爆が投下され、ソ連が参戦して、今日まで中国残留孤児問題や領土問題を抱えることとなりました。1945年(昭和20年)7月28日にポツダム宣言を受諾していたら、青森空襲は無かったのではないかと思うとき、本当に残念であり、当時の為政者の責任は重大であったと思います。(今村修)