■ねぶたの由来
坂上田村麻呂説 『東日流由来記』ほかの伝説
津軽為信説 『津軽編覧日記』
眠り流し説 『眠流し考』(柳田国男・昭和11年)
眠り流し 七夕(ナヌカビ)の農民行事
「ねぷたコ流れろ マメの葉とっつばれ(とどまれ)」
『津軽風俗画巻』 豊歳祭
■幕末~明治初期の様相
幕末 藩からたびたびの禁令
明治2年(1869)のねぶた 『青森市沿革史』
「七日 七夕祭ねふた多分に出る、近来珍しき程大なる夥多なり
一 濱町(宝船 神功皇后)
一 新町(牛若 鼻天狗 十一間)
一 大工町(輿) 鍛冶町(妲己)
一 米町(漢高祖白蛇を斬る)
一 安方町(相馬将門 千両箱)
右何れも百人余の担ぎ也
四五十人持は大町、蜆貝町、博労町、塩町なり。右の他各町にて小さき一人持以上のもの沢山なり(村林舊期)」
■明治6年(1873) 「ねぶた禁止令」 7月9日(旧暦5月28日)
「稔冨多ヲ禁止候事」(国立公文書館・内閣文庫)
権令(ごんれい) 菱田重禧(ひしだ しげよし)
禁止の理由
「七夕祭の時に稔冨多と唱え、種々の偶像を持ち出して市中を徘徊するのは当地方の風習だが、これはまったく昔の蝦夷の野蛮な余風で、賤しむべきものである。それ ばかりでなく、大勢集って喧嘩をして、毎年のように迷惑をかけている。これは甚だ困ったことだ。」
県民を愚民視~「愚民を諭(さと)シテ陋俗(ろうぞく)ヲ洗脱セシム」
「虫送り」、「盆踊り」も禁止
禁止令の翌月、菱田重禧は免官となり青森県を去る
■禁止令後のねぶたの状況
禁止令後、ねぶたは明治15年(1882)に復活するがそれまでの状況は不明
『葛西次郎兵衛日記』(弘前)
「明治6年 どこからもねふたは出ない」
「明治8年 弘前のあちこちの士族や町家から大分ねふたが出たようだ」
『北斗新聞』~本県最初の新聞、明治10年(1877)
「子供たちがねぶたを出していたところ、巡査が灯籠を壊し、子どもを棒で叩いたりした」
■明治13年(1880) 『青森新聞』
『青森新聞』~明治12年(1879)3月創刊、明治15年(1882)8月終刊。
◎244号 8月7日(旧7月2日)
当市中ではこの頃侫武多と唱え灯籠をもって七夕祭をするのはよいが、夜中に火を灯し石炭油の空箱を叩いて群れをなし何かつまらぬことを囃し立て深夜まで市街を横行し、人の安眠を妨げるのみならず、いきなり店先に押し込んで蝋燭を強要し、もし断られたときは口を極めて罵りおおいに迷惑する者多し。土地の風習とはいえ誠に良からぬ。
◎248号 8月16日(旧7月16日)
①侫武多の故事 津軽大蔵公に基づくねぶた由来
②侫武多は農事の天災や虫害がないように豊作を祈願するもの。これが正しいかは別 として禁じられていることに士族までもが不平をいっている
③一昨年までは禁止が解けず昨年は除虫を名目に官の許しを得たがまだ本格的でなかった
④今年も官の許しがあり大きいものや趣向をこらした侫武多が出た。その蝋燭など経費は莫大にかかっている
⑤各侫武多には多くの人が参加し鐘・太鼓・石油空き箱・横笛で囃し立て、女装あるいは異体を装い、気が狂ったように叫んでいる
⑥新町→安方町→濱町→蜆貝町→堤町→大町→米町→鍛冶町→寺町が通例
⑦12日(旧7日・ナヌカビ)は例のように堤川に流したが、その賑わいは物価高騰に苦しむ時世とは思えないほどである
■明治14年(1880) 『青森新聞』
◎394号 8月6日(旧7月12日)
侫武人(ねぶた)は例のように流しが行われた
昨年は浦町村からもねぶたが出たのが珍しく、村も市街化の兆し
今年は大野村からも出て青森では全部で100余となった
侫武人は津軽家先代嗣子争論から始まったといわれていたが研究家によると田村麿の創始だという
<侫武多祭の記> 坂上田村麿創始説
◎395号 8月14日(旧7月20日)
北津軽郡五所川原村は元来侫武多の盛んな所だが、本年は大いに盛況で、平井町、柏 原町、食川町、新町などが目立つが特に食川町のものは10間程である。その他小さきものは数えきれず~
■明治15年(1882) 「侫武多取締規則」 明治15年8月2日(旧6月19日)
ねぶたの正式な復活
この時からねぶたの運行は許可制となり1丈8尺(約5.45m)以上の燈籠は運行できず、 燈籠の前に「官許」が貼られた
明治31年 「侫武多取締規則」の改訂
高さ制限 1丈8尺(約5.45m)から8尺(約2.42m)へ
※実質的に守られなかった。
金銭物品の請求禁止、運行時間は深夜12時まで、刀剣・棍棒の携帯禁止、
■明治24年の青森ねぶた
県内最古のねぶた写真
■弘前に扇ねぷた出現
■明治末期ねぶたの小型化
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