1 敗戦後から団地造成直前まで

写真1 昭和23年の桜川地区航空写真
(提供:国土地理院)

桜川団地ができる以前この地はどうだったのか、少し歴史を紐解いてみましょう。
まず、日本が太平洋戦争に負けた後の昭和23(1948)年に撮影された写真1を見てみると、桜川地区は一面の田園地帯でした。コメの収穫量も多かったようです。ところで、市の中心部に近いにも拘らず水田地帯だったのは、それなりの理由がありました。文字通り「荒れる川」である荒川と駒込川に挟まれ、昔から洪水の常襲地帯で、住むのには適していなかったのです。

図1 青森市地形図(「スーパー地形」より)

図1を観ると、八甲田山系から青森湾に流れ込む川の殆どの水は、両河川を通して桜川地区に流れ込んでいると言っても過言ではありません。経験豊かな先人たちは洪水の危険性をよく知っていて、この地を住み家とすることはありませんでした。
次に、昭和37(1962)年5月の写真2を見てみても、桜川地区は依然として水田地帯でした。しかし、周辺地区では宅地化が徐々に進行しているのが見て取れます。

2 昭和30年代後半団地造成始まる

写真2 昭和37年の桜川地区航空写真
(提供:国土地理院)

そして戦後復興と人口増加により住宅が不足し、昭和37(1962)年から同42(1967)年にかけて、青森県住宅協会によって桜川地区で団地造成が行われました。それまで、平地から八甲田山系や東岳、そして遠く離れた岩木山も見えていた一面の水田地帯が、数年の間に造成され、昭和42年秋頃までには計画戸数の約3割=200戸余りの住宅が瞬く間に建設されました(写真3~5を参照)。

写真3 桜川団地造成前の風景 (昭和37年頃)

写真4 桜川団地造成工事中航空写真 (昭和38年頃)

写真5 昭和44年の桜川地区航空写真
(提供:国土地理院)

3 昭和40年代の桜川団地

写真6 昭和44年の晴雄橋流失

しかし昭和44(1969)年の夏には、荒川・駒込川が氾濫し、建ったばかりの住宅街が大洪水に見舞われました。過去の歴史に謙虚に耳を傾けず、洪水常襲地帯での防災を怠ったためです。洪水の主な流路となった駒込川の河川改修が行われるようになったのは、この後の事です。
そして昭和44年の航空写真=写真4で特筆すべきは、写真最下段に円弧を描いている鉄道線路の東北本線です。青森高校の南を通る線路は、昭和43(1968)年秋から供用されました。それ以前は、堤橋のすぐ南を通っていました。しかし線路が市民生活の障害となり、街の郊外への発展を妨げていたので、大きく南方に移設されました。

4 昭和50年代の桜川団地

写真7 昭和50年の桜川団地航空写真
(提供:国土地理院)

更に昭和50(1975)年の航空写真=写真7を見ると、現在の約8割に相当する部分が色々な建物で埋め尽くされています。また昭和43(1968)年に植樹された桜の木も大分大きくなっています。
このように桜川団地が青森市民にとって、住宅地としての人気が如何に高かったか、航空写真の変遷から知ることが出来ます。

5 現在の桜川団地

写真8 平成23年の桜川団地航空写真
(提供:国土地理院)

写真9 北側から見た団地

写真10 南側から見た団地

50年の年月を経ると、車社会や豪雪などに充分対応した団地作りがされていなかったため、色々と不備な点が目立ってきています。しかし、近年増加してきた「子育て世代町会員」と先人たる「熟年町会員」が手を携え、「故きを温ねて新しきを知る」をモットーに問題点の解決策を探りながら、次の50年に向けて更なる快適な街づくりを進めようとしています。(相馬信吉)

6 「荒川」が消えて「堤川」に

ふるさとの風景は、そこに住む人びとにとってかけがえのないものです。桜川団地は遠く八甲田山が見渡せ、そこから流れてくる2本の川が、この地を大きく特徴づけています。川名は、ひとつは「駒込川」で他方は「荒川」でしょうか、「堤川」でしょうか? 答えは「堤川」です。

図2 青森東部地形図

一枚の地形図を掲げました。国土地理院発行の「青森東部」(昭和28年版)の桜川団地付近を切り取ったものです。青森湾流出部から「荒川」と「駒込川」合流地点までが「堤川」で、これに東から流れるのが「駒込川」、南からが「荒川」と明記されています。この後(昭和年代)に発行の地形図も、川名の表記は変わることがありません。
権威ある図書でも確認しました。「日本歴史地名体系」(昭和57年、平凡社)では、「堤川」は“八甲田山系から流れ出た荒川と駒込川の合流点・松森福田の西から青森湾に注ぐまでの約1.8キロ”、「荒川」は“八甲田山系櫛ヶ峰直下に源を発し、(中略)松森福田の西側で駒込川と合流して堤川になる。長さ34.3キロ”とし、「青森県百科事典」(昭和56年、東奥日報社)でも、ほぼ同じ説明をしています。

◇「荒川消失事件」
大変ショッキングな見出しを付けましたが、昭和62年から翌年にかけて、このような事件が青森市議会で論議され、青森県知事の判断が求められるなど、新聞紙上をにぎわしました。
話は「荒川」の呼称で進めますが、青森県の児童文学研究家として知られた北彰介さんが、生まれ故郷の荒川町周辺をドライブしていました。昭和62年6月のことで、金浜地区から高田町へと「荒川」に架かった「金高橋」を渡ろうとしたとき、橋のたもとに見慣れない標柱を見つけました。それには、なんと「堤川 青森県」と記されていたというのです。北さんは多くの方がたの支援を受けて市や県などの行政に、ことの確認と善後策を訴えていきました。(「北彰介作品集・わらはど歳時記」、平成15年)
どうしてこうなったのでしょうか。要点を記すと、この川は県が管理する二級河川で、堤川水系の治水管理を始めたのが大正5年、幹川を河川法にしたがって「堤川」としました。昭和18年には、管理区間を延長して河口から八甲田山中の源流部までとし、この時点で「荒川」の名前が県の台帳から消えました。河川名は「一つの河川は一つの名称で」という国の指導に従ったのです。「荒川」は、「堤川」に連なる幹川であったことから「堤川」になったのです。「駒込川」は枝川で名称はそのままです。

◇「荒川」の呼称は間違いか
この事件は、昭和63年の3月になって決着しました。ときの知事が、「古くから親しまれてきた荒川の名称をなくさないで欲しい」という要望に対して、「荒川(堤川) 青森県」という標柱を地元の橋のたもとに建てるという折衷案を示したのです
これは、騒ぎの大きかった荒川町周辺での解決策ですが、「荒川」流域のその他の住民はどのように考えれば良いのでしょうか。知恵をいっぱい持ち合わせている住民としては、この川は別名「荒川」とも言う、となるのでしょうか。(室谷洋司)