避難者を防空壕に誘導する父

避難者を防空壕に誘導する父

青森大空襲の時私は6歳だったと思いますが、その時の父のとった行動は今でもよく覚えております。私の家は今の松森町に有りましたが、今と違ってまだ畑や田んぼが周りにいっぱいありましたので、青森中心部の人達が疎開をしに来ている人達もおりました。そのため市民の多くは、ここは安全だと思っていたようでした。この様に思われていたので近所の住民達ものんびりと農家をしたり勤めに出かけており、あまり戦争という危機感が感じられずに過ごしておりましたが、私の父は「何でもいざと言う時の為に備えて置くものだ。」と言って、一人で黙々と防空壕を母屋から離れた所に作って、近所の人達には大袈裟だと言われながらも、頑丈に大きく作り、家族がすぐに逃げ込めるようにと備えておりました。今でも覚えておりますが、土を深く掘って大人が立って歩けるようにし、土壁が崩れて来ないように壁は全部板で塞ぎ、家中の家具を全部入れてもまだ6畳間位の広さもあり、その中に井戸や換気口まで作ってありましたので、母屋の中よりずっと快適でした。私達子供はその中でよく昼寝をしたり遊んだりした事を覚えております。

そして昭和20(1945)年7月28日の夜ですが、空襲警報のサイレンが鳴りだしたので、父に連れられて防空壕まで走って行き、家族でその中に隠れておりましたら、爆撃機の飛んで来た音が聞こえて、爆弾を落とす音が聞こえて、外がざわざわと騒々しくなる音が聞こえました。父は外がどうなっているのか見て来ると言って外に出ましたが、私達は怖いので外に出れなかったのですが、父が防空壕の中に向って「お前たちも出て見ろ。青森の最後をよく見て置け。」と言いましたので外へ出て見ました。すると最初は白い煙で町中が充満しており、これは何だろうと思っていたら、徐々にその白い煙に火が付いて赤々と町中が火の海になりました。そして明るく周りが見えるようになったら、何機もの爆撃機から無数の焼夷弾が投下されているのも見えました。父は「駒込川に守られているからここまでは火は来ないだろう。」と言ったので少し安心しましたが、その川沿いに避難して来た人達がいっぱい走って逃げて来ました。すると父は、子供を連れて逃げている人や高齢の人達に、自分の防空壕の中に入るよう促して、あっという間にそこは避難者で入りきれないほどになりました。

次の日の朝、私の家の防空壕に避難した人達はそれぞれどこかに出て行きましたが、家を焼かれて行く場所がないと言って、またそこに帰って来た人もおりましたので、父はその人たちを何日もそこに住まわせておりましたが、町は焼かれてしまい、これからの生活はどうなるのだろうと子供ながらに不安でした。でも父は焼け出されたその人達の面倒を見て、食料も少なかったけどご飯も一緒に食べました。

父は偉い人ではなかったけど、立派な人だったと思っております。(絵・聞き書き:張山喜隆/平成29年4月22日)