青森空襲の時私は21・2歳だったと思います。弘前の陸軍歩兵隊に居りました。「青森、燃えているぞ」の声で青森方面を見ると、もう青森の空は真っ赤だった。空一面、どす黒いピンク色だったと感じたな。それを見てまず感じた事は、「次は弘前にも爆撃機が来るんじゃないかと思いましたよ」
私は青森荒川生まれで四男坊でした。上に3人、下に3人兄弟がおりましたが、すぐ上の兄が海軍の船で南の海で戦死したと聞かされておりましたので、次は自分の番かなと思いました。あのような時って、人間だなんてまず自分の事を考えるものだと思いましたよ。あの赤く染まった空を見て、青森にいる妹や両親の心配をしなかったんだもの。ただボーッとして見ていて、何にもする事ができないし、ただボーッと見ているしかなかったんですよ。同じ兵隊仲間にお寺のお坊さんがおりましたので、この人と一緒にいれば死ぬ事はないかもしれないと思っていました。兵隊だったので、それだけ死の事を考えていたのだと思います。
次の日、本当は秋田に移動して憲兵になる予定でしたが、その日になっても命令は発令されないで、次の日も次の日も確か弘前にいて、青森に帰って来たのは空襲から大分日にちが経ってから帰って来たと思います。それでもその被害の状況は大変なものだったよ。何も無くなっていたから、どうするものかなと不安になりましたよ。
荒川にはすごく市民が逃げて来て、炊き出しなどもしたそうだし、嫁も雲谷出身だったので、青森空襲は見たそうです。やはり市民がすごく多く逃れて来たそうですよ。戦後は国鉄の保線区に入りましたが、青森駅前も荒れた生活者が多くいたのを覚えております。戦争はもう嫌ですね。(絵・聞き書き:張山喜隆/平成29年7月23日・正寿園にて)
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