●青森駅

東北線が明治二十四年全通、停車場設置の候補が三ヵ所(現在の市役所、大坂町、旧浪打駅)があったが、いずれも地価の点で決まらず、ついに安方町の共有地にきまった。漁師町で町の西端の安方町が急に人通りが多くなり、繁華街の仲間入りした。当時、青函連絡船の乗船場が旧桟橋にあったので、北海道へ渡る旅客や貨物は安方駅で積みおろされ、人力車か徒歩で浜町旧桟橋へ行ったものだ。

乗船場のあった旧桟橋、現在の聖徳公園のあった場所に日本郵船株式会社の出張所があり、浜町には、商店、旅館、料理店が櫛比し、市の繁華街であった。

浜町がさびしくなったのは、明治三十一年、日本郵船会社が事業拡張のため、新浜町の敷地買収にかかったところが、価格の点で地主と折合わず、ついに旧来の渡船設備を投げすてて、青森駅に隣接した安方町共有地を買収し移転してからである。日本郵船会社の移転で一番打撃をうけたのは旅館業で、急きょ安方町に支店を出すやら移転して行った。

明治四十一年、日本鉄道会社が国鉄に買収され、青函連絡船も日本郵船会社から権利を譲渡されたので、鉄道構内が狭いというので青森駅を新町口へ一町移してから、安方町は急に寂しくなった。

新町へ移った青森駅は改造し、正面出入口と乗降口を新しく設け、さらに二階建の連絡待合所を増築するなど、東北の玄関にふさわしい大停車場となった。「目で見る青森の歴史」(昭和44年 青森市)


●旧桟橋(浜町桟橋)と新桟橋(安方桟橋)

青森旧桟橋は浜町にあった。藩政時代この付近に番所があり、青森港に出入する船舶を鑑視していた。 明治六年、はじめて青函連絡船(弘明丸)が就航するようになって桟橋が設けられたというが、判然としない。同九年に明治天皇が東北、北海道ご巡幸遊ばされたとき、この場所からご渡海された。

三菱会社、共同運輸会社の出張所や、青森税関支署(明治三十九年)、青森大林区署(のち青森市役所)が建ち、付近に旅館、料理屋が建ちならんで青森市の繁華街であった。旧橋を中心に海岸地帯に各回漕店の倉庫が建っていた。 海運業者は浜町、安方海岸を利用していた。 小樽、釧路、根室、網走などの定期航路船は、この付近の海岸に碇泊し、米、味噌、藁工品などの特産物が荷役され、荷馬車の往来は頻繁であった。

安方桟橋は県庁から北へまっすぐの海岸に設けられたもので明治四十一年東宮嘉仁親王殿下が行啓のとき、この桟橋からお召艦にご乗艦 大湊へ出航されたが、大正年代に暴風雨のため破壊流失した。「目で見る青森の歴史」(昭和44年 青森市)


●青森ドック(船入潤)

安方駅で下車した旅客は浜町旧桟橋まであるくのは非常に不便であった。貨物にいたっては、なおさらで、この不便を解消するため日本郵船会社が鉄道構内にドック(船入潤)を設け、引込線を敷き、貨車から艀へ積みかえした。青森の第一次の交通革命で、打撃をうける旧桟橋付近の浜町の町民が大反対したが、強行された。「目で見る青森の歴史」(昭和44年 青森市)


●青森運輸事務所

東北線、奥羽線を管理していた青森運輸事務所、青森保線事務所は安方町にあった。現在問題になっている鉄道管理局である。鉄道職員が数百人つめ、事務をとっていた。

青森運輸事務所の前は、連絡船の乗船客相手の旅館、みやげ品の売店、そば屋がズラリとならんでいた。大正十四年、青森築港第一期工事の完成と同時に、鉄道棧橋が西防波堤内に設けられ新安方町の乗船場がなくなって、青函連絡船が鉄道桟橋に横付されるようになってから、安方町から旅館、そば屋が姿を消した。また青森運輸事務所が廃止され、鉄道管理局が秋田、盛岡に分轄、移転してから、同所は国鉄バスの置場となった。「目で見る青森の歴史」(昭和44年 青森市)


●旅客、貨物の艀輸送

終着駅、青森駅に到着した旅客、貨物はすべて降ろされた。旅客は青森駅の待合所で休憩し、駅員の先導で新安方町の乗船場へ行った。 歩いて五、六分だが、上屋がなく雨や雪の日には旅客は難渋した。 乗船場から一、二等船客は小蒸気船に、三等船客は艀に乗せられ、本船まで曳航されるが、波の高い日には本船まで行くうちに船酔いで吐く人がある。一、二等船客はタラップで本船に乗船するが、三等船客は本船の中央にあるマド(一間四方くらい)から荷物同様に投げこまれるように乗船した。移住民の多くは、この時から寒い北海道開拓第一歩がはじまったと感じたという。「目で見る青森の歴史」(昭和44年 青森市)


●青函連絡と貨車航送

大正四年六月、青森築港第一期工事の起工式をあげるにあたり、鉄道省は鉄道橋の新設の計画をし、貨車操車場を別に新設することとし、同八年浦町に十四万坪の操車場用地を買収し、一方岸壁工事は青森築港工事と併行して進め、第一期工事は大正十二年終了した。

従来青森駅に接続してあった連絡待合所を、岸壁に移し、連絡船は岸壁に横付けされた。さらに、貨車航送を独乙ザスニッチから瑞典トルルベルグ港間、海上六十五海里に運航のものと同様の形式をとり、船の大きさも同型にして計画、大正十四年、完成し、本土と北海道との連絡史上大変革を与えた。

これまで北海道へ送られる貨物も、本州へ運送される貨物もすべて青森港で積みかえられた。ために青森港の海運界は非常に繁忙をきわめた。また津軽地方の産米も玄米で青森に集荷され、精米加工、北海道各地へ移出されていたので、 青森の米問屋は繁昌したが、貨車航送が実施されてから、生産地から直接消費地へ輸送されたため、青森市経済界に大なる影響をもたらした。「目で見る青森の歴史」(昭和44年 青森市)


●青森県庁と県庁通り

青森県庁は明治四年十二月弘前から移転し、弘前藩お仮屋跡に開庁したが、新庁舎が建てられたのは同十五年である。その後、改築されたが戦災までは昔の姿を保っていた。

青森県庁舎はルネサンス式の西洋様式の建造物で、四周の土塀と旧藩時代の堀があり、庭内に三百年の歴史を物語る老松があって、洋式の庁舎との対照は実に美しいものであった。表通りの堀はいつころ埋められたか判然しない。

青森県警察署が県庁前に移ったのは、いつころか判明しないが、明治四十三年大火後は県庁の建造物にならって、腰折形の洋館であった。 青森警察の北となりは、東津軽郡郡役所であった。

明治四十三年の大火前には、郡役所が今の国警本部のところにあった。大火後、農業会が使用して、郡役所は青森警察署のとなりに移った。大正十年郡役所が廃止されてから、一時空家になっていた。

昭和三年県立図書館が新たに設けられることになって、県立図書館として使用された。図書館の向い側は東奥日報社で、隣りは寺井純司が創立した陸奥日報社であった。 陸奥日報社は青森日報と改称、のち野宮愛太郎が経営した西洋軒となった。(青森市町内盛衰記から)


●新町通り

もと百姓町といって明治初年まで農民が住んでいた。新町の発展したのは、明治二十四年完成した東北線が、同三十九年国有になって、同時に日本郵船会社から青函連絡船をも継承し事業を拡張した。 

青森駅構内が狭隘になったので、青森駅の乗降口を安方町口から新町口に移転したため、安方町が寂れ始めたのである。新町三浦甘精堂以西は乾地で、駅前に鉄道官舎があった。

その地に大正二年、青森で最初の活動常設館が建った。日活尾上松之助の映画が上映されていた。 常設館の横を流れる金沢堰が昭和十年暗渠になってから、西かどに菊屋デパート、東かどに戦後東映劇場が建ったが、昭和のはじめには一与村本酒店があった。同所は村本製材所である。三浦甘精堂から東に県庁角までが新町で最も繁昌した場所で青森デパート、森永菓子店、成田、北谷の両書店があった。戦後長武田デパートが建ち戦前以上の繁昌ぶりである。

青森でデパートの最初は松木屋である。大正十年の創立である。 戦前の松木屋は柳町の角にあった。写真に見る豪壮な建物で、市内のハイカラな紳士、淑女は必ず同店の世話になった。戦事中建物疎開で解体したが、戦後、山田平太郎、小林長兵衛らの土地を買収、松木屋呉服店が再興した。「目で見る青森の歴史」(昭和44年 青森市)


●大町(本町二丁目) 通り

もと大町、現在は本町と改称されたが、元来寛永元年、青森港が開港されたとき、開港奉行森山弥七郎が大町本町と命名した。いつころ大町と改称されたか不明であるが、宝暦以後と思われる。写真はいずれも明治四十三年の本市大火後の建築物である。安田銀行青森支店(富士銀行)は明治三十二年青森市大町に設けられた。同所は青森町年寄村井新助の宅地である。第五十九銀行青森銀行本店)は明治十二年青森支店が設けられた。

設立当時は第五十九国立銀行といって、紙幣を発行していた。同所は青森町年寄佐藤理右衛門の宅地であった。カネ長呉服店は現在新町に移りデパートとなっているが、戦前までこの地で商売していた。世界湯は戦前青森市で一番近代化した浴場であった。大町は明治二十四年、東北線開通後、安方町に青森駅が設けられて以後、青森の繁華街となり、銀行、会社、大商店で占められた。「目で見る青森の歴史」(昭和44年 青森市)


●浜町(本町三丁目)通り

浜町は、町名の示すごとく浜辺にあり、船問屋が多数軒をならべていた。元治元年、浜町安方町の北側が宅地に編入され、明治五年、入札払いとなるまでは、北側(新浜町) 一帯に人家がなく、見通しが利き、青森港に出入する船の監視が容易であったのみならず、秋天候が悪くなり海上が荒れ、故郷に帰ることができない上方船が、浜辺に巻きあげられていた。

明治の世となって、陸上交通が発達し上方船がはいらなくなってから、船問屋が大きな家屋を利用して旅館業に転向した人が多い。また蒸気船が就航し北海道との海運が発達してから、商店街となったが、旅行者や船員相手の料理屋が繁盛し、浜街美人が二百名もいた。

浜町には青森病院 (現在の神病院)と青森郵便局が代表的建物である。 青森病院は済衆病院といって明治六年に青森町有志が私立病院を建てた。初代院長は足立当通である。青森郵便局は、明治五年善知鳥神社境内に建った。同十二年二月青森電信分局を浜町二丁目に建設、同二十年郵便電信を合併(浜町二丁目)青森郵便電信局となり同三十六年青森郵便局(二等)と改称した。

 同郵便局は明治三十四年の浜町の火災で焼失したので、 練瓦造りの近代的局舎を新築したが、同四十三年の青森市の大火で焼失、外まわりを残したのを補修し、戦前まで浜町にその偉容を誇っていた。

しかし戦災で焼失後、国道に移転、旧敷地は青森製氷会社に買収され、倉庫となった。「目で見る青森の歴史」(昭和44年 青森市)


●米町(本町二丁目) 通り

米町はもと五戸町と称した。 しかし米問屋が多く住んでいたので、米町と名付けられたといわれている。 米町で米商として活躍した商人に長内覚兵衛がある。文化年間の長者鑑に前頭九枚目に位する青森屈指の豪商で、天保の凶作に飢民救済に奔走した人である。

天保八年、米町で米屋商売が許可になった人に村林勘六、米沢屋庄右衛門、小浜屋儀兵衛、馬見屋嘉助、仁岸屋与兵衛、伊勢屋善蔵、がある。

明治の世となって津軽米が多量に北海道へ移出されるようになってから、奈良左市、高杉才太郎などが、米商として活躍していたが、米の買入及び積出しに不便であったため、安方町、新町に米商が多かった。むしろ米町は米商として豪商が少なく、呉服屋、質屋、雑貨商の商店が多かった。

藩政時代、弘前との往還道路は、油川、新城を経て浪岡に達する道路よりも、筒井、大野、荒川、高田を通って浪岡に達するのが本道で堤町から博労町、米町から善知鳥神社に至る道路は青森の商店街であった。「目で見る青森の歴史」(昭和44年 青森市)


●県立青森病院

青森県立病院は国道寺町 (中央町)、現在の青森市役所のところにあり、県下から病人が集まり博士の診療をうけた。県立病院の沿革を調べてみると、明治六年、青森町有志が浜町に(現在の神病院)私立病院を設立した。これを済衆社といった。済衆社は本県における病院組織の医療機関設置の初めであって、県病の基源をなすものである。

明治九年、青森県の管理に移って、公立病院となった。翌十一年、県立青森病院と改称した。しかし同年四月、火災にあい焼失。 翌年復興したが、同二十年県財政の悪化から青森町の経営に移った。明治四十三年の青森市の大火で烏有に帰したが、残有医療機械を用い葭町小学校焼跡に院舎を急造して診療事務を継続した。しかるに、時代の進運に伴い、小規模の院舎は市民の要求をみたすことができず一大病院建設を必要とするにいたったとき、県立青森師範学校の浪打移転問題が具体化したので、明治四十五年の通常県会に師範学校敷地跡に県立病院を建設することを決議し、病院は大正元年竣工した。

青森市公立病院の機械を寄付し、同年九月十一日、開院式をあげ、同月十五日から一般の診療を開始した。戦災で焼失、昭和三十七年、もとの新町小学校跡に青森県立中央病院として復興した。「目で見る青森の歴史」(昭和44年 青森市)


●青森営林局

青森県の官公林がすべて内務省の直轄となって、青森町に地理局出張所が県庁内におかれたのは明治十一年七月である。翌十二年四月、米町四十四番地に出張所を移した。 借家でもあったのか、同年十二月一日、新浜町十番地に新庁舎を新築移転した。新浜町十番地は聖徳公園の向いで、聚楽座あとで遊楽座と改名した芝居小屋のあったところである。

明治十九年、大林区署となって職員が増加し、新築拡張の議が起ったが、予算の関係で着手にいたらず、具体化したのは明治三十二年である。 現在の青森商工会議所のところに新築することになり、完成したのは同三十六年一月であった。当時の大林区署の建物は、もとの県庁舎以上立派で、管下小林区署からヒバの良材を伐り出して建築したものであったから、青森市の偉観であった。 青森大林区署が移転した跡に、青森市役所が移った。

青森大林区署はルネサンス式の近代的建物であった。 落成式当日は署員全員が提燈行列をして祝った。道路はこの時初めて鍛冶町から、まっすぐに大林区署に通じた。大林区署は北向きに建った。この近代的建築様式を誇った建物も、明治四十年一月、測定室から火を発し、瞬時にして焼失した。

そこで沖館村にあった貯木場、製材工場の監督の必要から、浦町に再建するより沖館村に移築すべきであるという意見で、同年十二月現在みる総ヒバ材の腰折洋式の青森営林局庁舎を建築したのである。六十年を経た今日でもビクともしない。 本市が誇る唯一の明治の建物である。 大林区署の跡地に青森税務署を建築する予定であった。しかし鍛冶町から大林区署までの道路を、浦町の発展上、旧線路まで延長すべきであるとの市民の世論が起きたので、大林区署敷地内を二等分にし道路を通し、税務署は東側に、西側は今きよを園主とする青森幼稚園を建築した。「目で見る青森の歴史」(昭和44年 青森市)


●塩町歌舞伎座

歌舞伎座は塩町にあった。 塩町は青森開港(寛永元年)当時、塩販売の特権を与えられた町であった。元禄年間塩商に不正があり特権停止されてから、町民の生活が困難となったので名主皆川吉兵衛が元禄八年、洗濯女を抱え置くことと芝居小屋建立のことを願い出て許された。いわゆる遊廓と劇場設置の許可を得たのである。

明治二十年ころ、時代の進運につれ大規模な劇場設置の必要にせまられ、同二十二年中村吉郎治が青森座 (塩町青柳菓子店)を創立、その向いに同二十七年に中村座(座主中村喜三郎)が建立し、東京歌舞伎を上演した。明治四十三年の大火で両方とも焼失。 遊廓が旭町森紅園に移ると同時に、旭町に長谷川と中村とが共同で旭座を建設したが、興行成績芳しくなく大正二年渡辺佐助、長谷川才太郎らが出資して塩町中村座あとに株式会社青森歌舞伎座を創立した。

戦災で焼失したが再建、しかし歌舞伎興行が不振になったので常設映画劇場と改まったが、これもまた不振で最近売却、解散したという。「目で見る青森の歴史」(昭和44年 青森市)


●聖德(せいとく)公園

聖徳公園は明治天皇が明治九年、同十四年の両度、東北及び北海道地方産業開発、民情ご視察の尊きおぼしめしにより当地に行幸、この青森埠頭からご渡海遊ばされ、三度行還の路にあたった本市の最も由緒深きご遺跡であるので、記念碑を建て保存しようと伊藤政助らは昭和四年に「明治天皇ご巡幸ご渡海記念碑建設会」を組織して、一般市民から建設費の募金をはじめた。

昭和五年八月、全市官民協力総工費二万五千円をもって起工、同十月末竣工、越えて翌昭和六年六月これが管理の万全を期するため、建設会から、一切を青森市に寄付移管の申出があり、市は慎重考究、市会の協讃を経て継承、聖徳公園と命名、昭和六年七月十六日開園式を挙行したのである。

以来市民に親しまれ、かつ市の名所となったのであるが、終戦後進駐軍への留意から隣地に移転、市民の目から遠ざかっていたが、臨港線の布設の必要から移転を要請され、昭和四十三年十月旧青森税関支署跡に移設されたのである。「目で見る青森の歴史」(昭和44年 青森市)


●青森かん詰業

青森市のかん詰業発達の沿革を考察してみるに、魚のかん詰より果実のかん詰が早かった。 果実すなわちマルメロのかん詰である。明治三十五年ころ岡本亀四郎がマルメロかん詰を開始したのが、本市におけるかん詰業開始の初めである。続いて明治三十七年、大町の長谷川与兵衛が筒井(現在の和田寛醤油工場)で軍事食糧にマグロのかん詰を製造したのが、当市における水産物のかん詰製造の濫觴である。

青森のかん詰が世に知られるようになったのは、大正三年のころ、根市兼次郎、石川清吉等が工場を設け、オイル、サージンの製造に着手して、翌四年に鈴力商店、二葉屋工場が設けられ、同五年には水産工業株式会社、伊太利人ジユセップ・ファブリーが油川町にかん詰工場を設け大規模な設備をしオイル・サージンの製造を開始してから、水産かん詰業が盛んになった。

青森かん詰が活況をおび、日魯製品と対抗したのは大正十一年ころで、鮭鱒が北千島、カムチャッカ、沿海州から運搬されてからである。八十から百前後の数十隻の運搬船で運ばれた鮭、鯖は貨車がなく冷蔵車が満庫でかん詰屋へ肥料値で落された。

青森かん詰業は初め鮮度が悪く、肥料値の魚を原料としていたので評判が悪かった。 青森かん詰業者の顔ぶれを見てもわかるとおり、魚屋が主で彼らの副業的にはじめられた仕事であった。しかし、製品が向上し欧米への販路開拓が日魯製品と対等に輸出されるようになってから、大正十五年、三菱資本の大東かん詰会社が進出してきた。業者は鋭意製品の改良、販路の拡張に努力した結果、一時は日魯より製造高を凌いだ。 青森かん詰が破竹の勢いで盛んになったので、国策会社である日魯漁業の手は官辺にまわって、輸出協会の下に協調会が組織され、製造が制限された。 続いて昭和六年の金融パニックと満州事変の勃発で、原料の輸入がピタリと止まってから、はなやかなりしかん詰の製造業も昔物語となった。「目で見る青森の歴史」(昭和44年 青森市)