2021年11月27日(土)、奏海の会が発足して初めての、市外散策ツアーを黒石市で実施しました。奏海の会会員9名が参加し、黒石市在住の鈴木・三浦両会員の案内で、雪の降る中をじっくり黒石を探索しました。

黒石散策ツアーの様子

以下に、当日配布された鈴木徹会員の力作資料を3回に分けて、紹介します。

8.県重宝 黒石市消防団第三分団第三消防部屯所
平成15年7月14日指定
建物形式  望楼付き木造2階建消防屯所
屋根形   望楼付き入母屋屋根、鉄板葺
規  模
  建  物
    1階    間  口     6.360m
          奥  行     14.537m
          面  積     82.80㎡
    2階    間  口     5.450m
          奥  行     13.980m
          面  積     78.67㎡
  望  楼  
       3階  2.27m×2.27m 面積5.15㎡
       4階  1.97m×1.97m 面積3.88㎡
                        5階  1.51m×1.51m 面積2.28㎡
                  望楼棟高              13.68m
 大正13年(1924)に建築された木造の2階建建物である。建築当初は、2階にバルコニーを設けていたが、昭和3年にノーザン式消防自動車の配備により、バルコニーが取り外され、現在の建築様式になっている。
 1階には、消防車を入れておくために大きな空間を有し、後方に8畳間の部屋を配する。2階は、18畳間と12畳間の部屋が縦列に並んでおり、バルコニーの部分が廊下になっている。建築当初、この部屋では結婚式や地域の集会所として利用されていた。2階部分前方には、梁間1間、桁行1間の望楼を3段載せており、全体として5階建ての建物になっている。
 市内には望楼を載せた消防屯所が3箇所あり、一番古いものは、元町の第二消防部屯所であるが、第三消防部屯所は造形的にも優れ、保存状態も良好である。

9.重要伝統的建造物群保存地区 黒石市中町伝統的建造物郡保存地区
平成17年7月22日選定
所 在 地  黒石市大字中町、浦町二丁目、大字甲徳兵衛町、大字横町の各一部
面   積  約3.1ヘクタール

1.保存地区の保存状況
 保存地区の町並みにおいて最も重要な特徴は、主屋の道路側に「こみせ」を設けていることである。これは、主屋の1階の高さに合わせて幅1間ほどの庇を付け、道路との境に1間から1間半間隔に建てた柱によって支えるものであり、歩行者がなんらの制約も受けずに、また障害物もなしに自由にこれを通行することができる。個々の家屋構成の一部である「こみせ」が連続していることにより、不特定多数の人々が利用できる通路が形成され、降雪期間の防雪通路としての機能を持つほか、夏の日差しや雨を遮り、挨拶や情報交換の場ともなり、さらに、商店の一部でもあるということから、商業発展上の効果も併せ持つものである。
 中町には、宝暦年間に建設されたものをはじめ、保存状態の良い「こみせ」を持つ伝統的建造物が残っており、洋風建築も1棟存在し、石柵、門、塀などの工作物や、樹齢100年を超える樹木などが独特の町並みを形成している。
 中町は、旧市街地の東部に位置し、町内を南北と東西に道路が通っている。南北に通っている道路は、江戸時代から浜街道と呼ばれ交通の要所であったため、中町は、様々な商店が立ち並ぶ商人町として栄えていた。
 屋敷割は、江戸時代後期から明治時代にかけて、その家の財政事情や商売上の都合などにより拡張や分割を繰り返してきた。土地台帳等の調査により、明治40年代に現在の屋敷割が概ね形成されたことが確認できている。
 屋敷規模は、間口2.8~23.7間、奥行7.8~45.6間、面積30.0~1518.5坪とかなりのばらつきがある。屋敷の形は、間口が狭く奥行の長い短冊形の典型的な商家の屋敷が全体の8割弱を占めるが、正方形に近い屋敷や、屋敷の拡大・分割によって不整形となっている屋敷も2割強みられる。
 宝暦年間に建築された高橋家住宅や、文化年間に創業した造酒屋鳴海家住宅は、江戸時代とほぼ同じ広大な屋敷のまま現在に至っている。

2.保存地区内の伝統的建造物群の特性
 保存地区内を南北に通っている道路には、主屋と付属屋が合わせて約70棟の建物が配置されている。
 建物の規模をみると、片側通り土間になっている典型的な商家の作りの建物は、梁間5間前後のものと、梁間7間前後のものの2種類がある。ほかに、造酒屋を営んでいる2軒は、主屋以下仕込み蔵、貯蔵蔵、作業場及び通路などで構成された広大な建物で、総建坪600坪前後になっている。一見して、屋敷間口によって制約されているように見える主屋の規模は、もっと広い範囲の要素があり、間口と奥行との比などによって制約されてきたと言える。例えば、間口の小さい主屋で奥行を大きくすれば、縦の動線のみ長くなるので、その不利を避けて、残る生産空間等は付属屋に移行させたと解することが出来る。
 建物の平面形態も、屋敷の間口に大きく影響を受けている。主屋建設の折に間口8間内外の中規模の屋敷である場合は、間口三つ割の平面として通り土間に沿って部屋を2列に配置する。それ以下の間口の屋敷においては、通り土間と坪庭の設置を前提として1列に配置するか、または前面に2列で、奥は1列に配置する間取りになっている。また、それ以上の間口の屋敷では、2列に並んだ部屋の外側に1~2室の座敷を鍵形に設置する形態を採用している。
 屋根は、青森ヒバを使用した柾葺が主流を占めていたが、現在では亜鉛引き鉄板葺が大部分である。伝統的建造物に関しては、切妻造が主体で一部入母屋造も見られる。無落雪屋根や陸屋根風の形の建物は、近年建築されたものである。通りに対しては、妻入りと平入りの両形式が混在している。間口が8間以上ある屋敷で、主屋を配した上でなお左右に余裕を生ずる中規模以上の住宅においては妻入りが多く、一方、狭い屋敷では、平入りが多い。
 伝統的建造物の小屋架構は、和小屋である。妻入り、平入りとも上屋梁間が4~8間に及ぶことから、上屋梁は一切通さず、室通りに沿って2列または1列に建つ通し柱に胴差を差し、これで小屋束を受ける方式が採られている。長い小屋束は四方に2尺ほどの間隔で通す貫によって緊結される。「みせ」の上などに設けられた中2階は、上方に小屋梁のない屋根裏を取り込んだ室で、小屋束の関係から、その間仕切りも下階に合わせたものであった。19世紀に入ってからの建物は、繋梁を使用して本2階にするものや、登梁によってもやを受けるものなどもある。
 住居の主屋や店舗は、江戸時代以来、木造真壁造が主流であった。伝統的な外壁の仕上げは、土壁の中塗仕上げ、しっくい仕上げ、板張り(腰板張りを含む)である。
 付属屋は、木造真壁造または土蔵造である。耐雪上の難点からか、土蔵の多くが屋内に取り込まれていたり、板壁などで覆われていて、外壁(土壁やしっくい仕上げ)全てが必ずしも外に現れていない。屋敷奥に数多く配されているということもあって、景観上はそれほど目立つ存在にはなっていないが、工夫を凝らして丁寧な仕上げを施した、すばらしい意匠の土蔵が数多く残っている。これらは、古くから繁栄した商家の象徴としても貴重なものである。
 保存地区の最大の特徴である「こみせ」は、商家のファサードや町並みの景観を形成する大きな要素である。「こみせ」の伝統的な形態は、構造が木造であり、幅1.6メートル前後、軒高2.3メートル前後、屋根勾配が2.0寸勾配前後で、天井は垂木表しである。こみせの前面(道路側)は、基本的には柱のみで、固定式の建具は入っていない。積雪期になると、「蔀(しとみ)」を落とし込んで吹き込む雪を防いでいた。さらに上部に障子戸を入れている場合もある。一部の家屋では、保存状態のよい蔀を現在も使い続けているが、蔀がない家屋でも、柱の痕跡から、本来は摺り上げ戸が入っていたことを確認できる。近年改造して、上部ガラス下部板張りの木製建具を設置している例もある。また、この「こみせ」の建具と関連して、上部に幕板を取り付けている例も多い。なお、幕板の代わりに欄間を付けたり、「こみせ」の内法高が若干高くなる出入り口や庭への入り口が設けられた部分に入母屋屋根を設置した例など、表構えの規模や業種などによって、個々のこみせ外観は多少異なる部分を持っている。

10.中村旅館
 当初から遊郭建築として建てられた。明治16年(1883)に北側が建てられ、明治20年に南側が建てられたという。
 元来、柾葺屋根で庇が長かったが雪の落下の影響から短くした。40年以上前に改装工事をしたが基本構造は建築当初の状態を保っている。特に正面玄関の玄関が遊郭建築の特徴を表している。
 現在は、旅館を営んでいる。

11.旧佐藤酒造
 旧佐藤家住宅は、明治27年(1894)に創業し、平成20年(2008)に廃業した造り酒屋「佐藤酒造」である。一般には『初駒』の名前で知られていた。
 主屋は文化元年(1804)以前に建てられたそうである。酒造業は明治27年に操業しているが、明治30年、明治43年に蔵が増設されている。また、佐藤酒造は元町に所在しており、この地域は藩政時代以前より商家町として栄えていた場所であることからこみせが連なっており、佐藤酒造の軒下南面には延長28間(約54m)こみせを今も有している。
 現在は、庄司惠雄氏と亜貴子氏夫妻が「NPO法人 元酒蔵の歴史的建造物群を保存・活用する会」を立ち上げ地域に貢献している。