今年は古希を迎える私が、小学生の頃自分の町内である栄町の、半径約1kmがテリトリーだった。映画大好き少年の私は、放課後になると小遣いを握りしめ、東奔西走して映画三昧に明け暮れた。その辺りからの約10年間を、思いつくまま披瀝していこうと 思います。
まずは合浦公園正門の近くにあった“日乃出劇場”では、「美女 と液体人間」という一風変わった映画を見たり、自宅近くの“高栄劇場”では、「月光仮面」「七色仮面」「少年探偵団」や、錦之助、千代之介らが活躍する時代劇シリーズを、毎日のように見に行っていた。もちろん同じ映画を、繰り返し飽きずに通っていたのです。 その向い側に“スバル座”が開館すると、「ボー・ジェスト」「アラビアのロレンス」「卒業」等 様々見たが、鮮明に記憶しているのは、 少し遡るが昭和32年に封切された、“明治天皇と日露大戦争”が公開された時、チンドン屋が陸軍兵士の格好をして、市内を練り歩いていたのが目に焼きついている。
それから、茶屋町にあった“文芸座”では、「三日月童子」を見たり、堤川河畔にあった“オデオン座”で、「地球防衛軍」「金語楼のおトラさん」を、堤橋近くにあった“国際劇場”では、「つづり方兄 妹」「赤胴鈴之助」等を観た。この館では後期になると、“セントラル劇場”という小型の映画館を併設し、主に洋画系のセカンドを掛けていたように覚えている。
さて、テリトリーの内で一番遠かったのは“歌舞伎座”だった。歩いていった事もあったが、大抵市営バスに乗車して観に行った。そこでは「怪獣ゴルゴ」「ミイラの幽霊」等のB級作品の他に、「アラモ」「ナバロンの要塞」「北京の55日」など、洋画の超大作群もたくさん観ていた。
テリトリーから外れた区域になるが、寺町にあった“東宝劇場”では、戦後初の戦艦大和を扱った、新東宝の「戦艦大和」が強烈な印象を残している。その後は8.15の戦争シリーズやゴジラシリーズをよく観に行った。この館もまた、後期になって小型の映画館(というより映写室?)“東宝シネマ”を、正面入り口の横に併設しているが、ここに始めて入館した時の体験が、鮮やかに甦ってきた。上映途中で入室したのだが、見終って照明がつくと、ビックリ 仰天した。座席数が30席前後?で、スクリーンサイズが畳2枚分くらいの面積だったので、おもわず笑ってしまった。
新町にあった“東映劇場”には、よく親父に連れられて時代劇を見たものだが、今も脳裏に焼きついている感覚というか、味覚が忘れられないのである。昭和30年代中頃に館内で売られていた、ソフトクリームが格別に旨かったのが印象に残っている。値段もその当時の子供入館料ぐらいだったように記憶している。新町の甘精堂の北向いにあった“名画座”へもよく行った。そこでは主に洋画系B級映画を観たが、「ロード島の要塞」「ジーグ・フリード」等が頭に浮かぶ。
アラスカ会館の裏通りに、“銀映劇場”があったが、日活ロマンポルノ上映館のイメージしか残っていない。“東洋劇場”(のちの東映劇場)の向い側に“駅前小劇”があり、ここは主にニュース映画を上映していたと聞いたが、詳しくは知らないのが心残りです。
昭和50年前後頃中新町通りに、“スカラ座”という映画館が、ビルの上部に開館している。そこでは「ミッドウェー」「ファイナル・カウントダウン」等、戦争映画を選んで見に行った。
昭和通りにあった“新興劇場”では、「忍びの者」「大魔神」「ガメラ」の各シリーズをよく見た。通りを挟んだ向い側の“松竹劇場”では「駆逐艦雪風」「ジョーズ」「スティング」「007サンダーボール作戦」を観た。東側に通りを1本またいだ夜店通りの中間に、“小劇”があった。西部劇の「ヴェラクルス」など、洋画系のリバイバルを見ていたものだ。
さらに東方面に移って、県庁西横通り(八甲通りの西側)を少し 入ったところに、“日活劇場”があったが、流石にそこまでは関係情報を入手していない。年代的にも地理的にも仕方ないのだが。
そのすぐ向かいに、昭和40年代の中頃、銀映会館として2館収容のミニ・シネコンが誕生した。“ミラノ”(1 階)・“みゆき座”(2階)の配置でオープンした。私は“ミラノ”を多く利用したと思うが、チャップリンの「街の灯」「モダンタイムス」「独裁者」のリバイバル上映が記憶に残る。
国道の夜店通り角にあった“奈良屋劇場”へは、一度も行かなかった。と言うより、行ってはダメだと廻りの者から止められていたのだった。その当時、何かよからぬ風聞でもあったのだろうか、子供だった私には知る由も無い。
さて、その国道を挟んだ南向かいに“ロマンス座”があり、ディズニーの「わんわん物語」を見た。小学生だった私には、「太陽が いっぱい」「十戒」「エデンの東」「撃墜王アフリカの星」など、名作が封切られても、観賞するチャンスは無かった。
その裏の通りを入ったところに、“第一劇場”があった。思い返すと、「史上最大の作戦」「奇跡の人」「大脱走」「シェルブールの雨傘」「007ロシアより愛をこめて」等々、枚挙にいとまが無いほど見に行った日々が懐かしい。
さらに、西側へ通りを一本隔てた旭町通りに、“宝塚劇場”があり、東宝映画の「宇宙大戦争」を長兄に連れられて見たのを覚えている。
沖館には“大勝館”と“日江劇場”が存在したが、残念ながら入 館せずに終った。後者は特別の理由もあるが、初期の頃は普通の映画も上映していた。
そのほかに、青森市で戦後初の映画上映が行われた、“海獣館”があったという。使用された建物は、以前にアシカやラッコ等の海棲動物類を、処理加工していた施設だったと聞いている。そのため、体験者の感想によると、臭いがけっこうきつかったそうです。場所は当時相馬町と呼ばれていた所で、現在の港町北部にありました。私は未だ生まれてないので、数年前に青森ペンクラブ会長をされていた、三上強二氏からお話を伺うまでまったく知りませんでした。また、氏の説明によると、堤橋近くの“国際劇場”は、当初戦後の敗戦による沈滞ムードを少しでも払拭しようと、浦部劇団が結成されたのを機会に、上演できる舞台として建設されたものだという。
順序が少し逆になるが、あるエピソードを思い出したので、記しておきたいと思う。この“国際劇場”に併設された“セントラル劇場”で体験したことだが、大作映画の「史上最大の作戦」を観に行ったときの事、もう数回見ているので、全体のストーリーの流れが頭に入っている私が発見した、ありえない体験である。数巻あるフィルムの映写する順番を、映写技師が掛け違いしたのを見逃さなかった。他の観客が気付いたかどうかは解らないが、あの時は自分でも「えーっ?」と驚いた。3時間の大作だったので、普通に初見の観客だったら気付かなかったと思う。
ついでに、前段で紹介した“高栄劇場”ですが、昭和42年の末頃に、1階がスケート場(アイス)で2階はボウリング場に変身しました。それから、私の記憶が間違いでなければ、“第一劇場”が取り壊された跡地に、日活レジャーセンターが建てられ、“日活地下劇場”とやはりその頃流行したボウリング場が同居したビルだったと思うのだが。その後“日活劇場”に変わって“東宝劇場”が営業を引き継いだように記憶している。異例なエピソードとして、「八甲田山」が封切された時は、4館同時上映という、驚きの公開方式が取られた事が忘れられない。
思い出の一コマとして、昭和30年代に各小中学校ごとに、校内上映会が映画館へ引率しての鑑賞会が行われた。また、私が在学していた高校は、映画同好会なるものがあって、市内各映画館と取り決めをしていたと思うのだが、西洋紙に簡易印刷された 切符を各劇場の窓口に出すと、中学生料金で入館できて、大変嬉しかったことを覚えている。今も昔も映画館内は禁煙なのだが、昭和40年代頃までは平気で館内喫煙が行われ、座席について前席の背もたれを見ると、タバコをもみ消したコゲ跡が、全面にビッシリと広がってついていたのを覚えている。
ざっと駆け足で、思いつくまま述べさせて頂きましたが、ふり返ればふり返るほど、想い出が走馬灯のように、頭の中を回転しながら、脳壁のスクリーンに投影され、懐かしくも楽しいひとときを、過ごさせてもらいました。今は昔のお話となりましたが、忘れ得ぬ映画黄金期の風景を、振り返ってみました。
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