莨町小学校の防空壕

莨町小学校の防空壕

小学生だったので、青森空襲の2日前まで一家で青森市郊外の八重田矢作に疎開していたのですが、突然青森に帰る事になって青森空襲に遭ってしまったのさ。

当時塩町で小さいけども下宿屋をしていましたので、その人達と一緒に逃げた逃げた。そして莨町小学校の防空壕まで行ったら、莨町の人でないから駄目だし、それにもう防空壕の中は満員で中には入らないと言われて、私達家族は浦町駅の方に、下宿の人達は海の方に分かれて逃げましたよ。浦町駅の方はもうすでに燃えていたので熱くて熱くて、それでも道路が少し広かったみたいで、火をくぐるようにして山の方を目指して逃げましたよ。着ている物とか髪がブスブスと焦げてくるのが分かるんだはんで(分かるほどだった)。

後で聞いたら、莨町小学校近くの防空壕で、随分多くの人が亡くなったんだって。そこに入れないと断られて逃げたから今こうして生きていられると思ったら、あれの方が幸運だったんだべの(幸運だったのでしょうね)。

下宿の人達も生きて再会してさ、しばらくは野内川の橋の近くに小さい小屋を建てて、その人達と一緒に暮らしたよ。

今考えたら、よくあれで暮らしたものだと思う。・・・・昔の人は辛抱強かったのー。(絵・聞き書き:張山喜隆/平成29年2月15日)