青森市が昨年7月に実施した調査によると、昭和20(1945)年7月28日の青森空襲について、「日にちも内容も知らない」という青森市民が約4割にのぼることがわかりました。
「青森空襲を記録する会」の会員でもある私には、衝撃的な調査結果でした。
自分たちが住んでいる大地に刻まれた5千年以上前の著名な縄文遺跡のことは知っている市民は多くいても、わずか72年前に起こったこの街を破壊し去った空襲を知らない青森市民が4割近くもいるなんて!
歴史教育の偏りがよく現れている数字に思えました。


あなたは、青森空襲の日を知っていますか青森空襲を記録する会は昭和55(1975)年7月に発足した市民団体で、微力ながら青森空襲の記録化と市民への啓蒙に努めてきました。

会としての唯一の刊行物である「次代への証言」は、これまで25冊を刊行してきています。
内容の多くは、空襲体験者を探し出し、それを文字化し、印刷物として後世に伝えていくという地道な作業です。
空襲時、仮に10歳だったとしても、それを乗り越えご存命だとしても、今は82歳になっているはずです。
そのような方が、この広い青森市内のどこにお住まいなのか?そのような人を探すだけでも、会員の高齢化が著しい空襲の会には、とても厳しい活動となっています。
しかし、手をこまねいていては体験者の方は、少なくなっていく一方です。

青森空襲後の中心街惨状(米軍撮影)

青森空襲後の中心街惨状(米軍撮影)

そんな状況の中、神仏が時々手を差し伸べてくれることがあります。
数ヶ月前に、ある古文書勉強会の会場で、私の隣席に偶然座った方が個人で、「伝えたい記憶」と題した青森空襲記録画集を作成していたというのです。
青森市幸畑で美容院を営んでいる張山喜隆さん(66歳)です。

制作中の張山喜隆さん

制作中の張山喜隆さん

しばらくして、張山さんから画集のファイルが届きました。
19話ほど収められており、主に母テルさん(2009年没)が生前よく話をしてくれた体験を絵と文章にまとめたものでした。
10数年前から、仕事の合間を見て制作に取り掛かったそうです。
特に、絵は下絵を書き、それをもとに何度も細部を書き直して、色付けして完成させていったそうです。空襲時の写真は殆ど残っていないので、これだけでも貴重な歴史資料です。これまで、浪打駅は焼失したという説と焼け残ったという説の二説があり、「浪打駅周辺の惨状」を描いた下図は焼け残り説を補強する資料となりました。
一見ヘタウマ風の絵は、見るものの目を一気に引きつけます。これまで数多くの青森空襲体験集を見てきましたが、張山さんの記録集のように色付き絵と文章の組み合わせは、初めてみました。
「張山画伯」渾身の絵は、お孫さんを怖がらせるほどの迫力があります。

青森市柳町の炎の中を逃げ惑う人々

青森市柳町の炎の中を逃げ惑う人々

三内霊園へ死体をトラックで運ぶ様子

三内霊園へ死体をトラックで運ぶ様子

浪打駅周辺の惨状

浪打駅周辺の惨状

青森空襲を知らない世代に、そのことを伝えるにはこれ以上の教材はないと感じた私は、彼から承諾をもらい、順次、ホームページに掲載していっています。

その後、HPでの作品を見た新聞社の方々が、張山さんの空襲作品を記事にしてくれました。
記事の反響は大きく、近隣の体験者が張山さんの美容院を訪れ、体験を語ってくれるようになりました。
ここ2ヶ月ほどで、4話の新作ができています。
「体験を語ってくれる人の話を絵にまとめない訳にはいかない」と、最近は自由時間の殆どを記録集の追記に費やしています。

「戦争を知らない世代に悲惨さや恐ろしさ、愚かさを伝えるには、話や文章より絵がふさわしい。戦争で人が死んでいくことの悲しさ、不条理さを伝えていきたい」と、今日も絵筆を走らせる張山さんは、地域おこしのリーダーもしています。
行政や学校に頼らなくても、自分がその気になれば平和の尊さを子供や孫、ひいては地域住民に伝えていくことはできるのだと、無言のうちに私達に教えてくれています。
青森空襲の証言収集は、まさに時間との勝負になっています。
皆様からの情報をお待ちしています。

青森まちかど歴史の庵「奏海」の会:青森太郎)