主に青森市の古写真(絵葉書)や地図などを展示している、青森まちかど歴史の庵「奏海(かなみ)」の公式ホームページです。
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伝えたい記憶

青森市在住の張山喜隆さんが聞き取り調査をし、絵と文にしたもの。記憶違いや聞き間違えがあろうかと思います。種々、ご教示ください。

【伝えたい記憶】第27回 戦争「青森大空襲の避難者を助けた父(淡谷弘子さんからの聞き取り)」

青森大空襲の時私は6歳だったと思いますが、その時の父のとった行動は今でもよく覚えております。私の家は今の松森町に有りましたが、今と違ってまだ畑や田んぼが周りにいっぱいありましたので、青森中心部の人達が疎開をしに来ている人 …

【伝えたい記憶】第26回 戦争「顔にやけどをした叔母さん 沼田荻野さんからの聞き取り」

親戚の叔母さんの家は堤川河口付近の蜆貝町にあり、一家5人で漁師をしておりました。昭和20年7月28日は青森空襲がある日だと皆知っていたそうですが、家を焼かれても船で沖に逃げたら良いと思い、空襲警報が聞こえても誰も外へ逃げ …

【伝えたい記憶】第25回 戦争「浦町駅長だったおじさんの話(沼田荻野さんからの聞き取り)」

戦争当時伯父さんは浦町駅の駅長をしておりましたので、浦町駅近くの官舎に住んでいたそうです。 昭和20年7月28日は、疎開先から青森に帰って来る乗客が多くて、各駅停車の列車はどの列車も満員状態だったそうですが、夜になってか …

【伝えたい記憶】第24回 戦争「同年代の友の死(成田妙子さんの話)」

青森空襲の思い出は、あまり色々あって思い出したくもなく、語りたくありませんが、一つだけお話ししておきましょうか。 私はその頃女学校に通学していたのですが、いよいよ青森も危なくなって来たと言う事で疎開を進められ、母と妹と一 …

【伝えたい記憶】第23回 戦争「疎開先から見た青森空襲(Kさんの話)」

東岳村(現在の宮田・馬屋尻・矢田・滝沢地区)に疎開をしており、そこから青森空襲の惨状を見てしまいました。私は6歳だったけど、夢でも見ているのかと思って、自分の頬っぺたをつねってみたから、現実だったんだよね。 その日は蒸し …

【伝えたい記憶】第22回 戦争「幸畑村まで逃げてきた人たち(工藤ツヤさんの話)」

青森空襲は思い出したくなくても思い出される事だよ。私は10歳だったけど、青森が焼けるのをはじめっから見てしまったよ。きれいな線香花火が空いっぱいに広がってさ、それがゆっくりと落ちて行った所から火の手が上がったのさ。 まず …

【伝えたい記憶】第21回 戦争「野内村當古寺も攻撃される(秋庭正美さんの話)」

太平洋戦争当時、野内村には今でもありますが、石油の貯蔵タンクか何基も建っておりましたので、敵の攻撃目標とされて、村では唯一被害を受けた場所じゃないのかな。 空襲警報が発令されると、当時8歳だった母の弟は両親と姉たちと一緒 …

【伝えたい記憶】第20回 戦争「古川跨線橋から浪打小学校が見えた(棟方精子さんの話)」

私は女学生で、大湊に勤労奉仕隊でも行ったことがあるから、その当時の事はよく覚えていますよ。 あの青森空襲の日は、空襲警報が鳴ってB-29が焼夷弾を落としてから、青森から平舘まで35キロ、家族皆で夜通し歩いて逃げましたよ。 …

【伝えたい記憶】第19回 戦争「避難中、家族と逸れた男の子(西田トシさんの話)」

青森空襲の時私は3歳でしたが、防空壕の中で干したウドンを食べさせられた記憶がありますよ。私が防空壕の中で「腹減った。」と泣かないように、母はそれを持って避難したそうですよ。先ずは子供の事を一番に考えたそうだよ。 私の夫は …

【伝えたい記憶】第18回 戦争「空襲後の青森市古川近辺(石村和子さんの話)」

当時小学校2年生で、浪岡町の母の実家に疎開をしておりましたが、昭和20(1945)年7月28日に青森に帰る汽車が満員で乗れなかったのが幸いをして青森空襲をまぬがれました。でも、疎開先が浪岡の山側だったので、青森の焼けるの …

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