主に青森市の古写真(絵葉書)や地図などを展示している、青森まちかど歴史の庵「奏海(かなみ)」の公式ホームページです。
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伝えたい記憶

青森市在住の張山喜隆さんが聞き取り調査をし、絵と文にしたもの。記憶違いや聞き間違えがあろうかと思います。種々、ご教示ください。

【伝えたい記憶】第24回 戦争「同年代の友の死(成田妙子さんの話)」

青森空襲の思い出は、あまり色々あって思い出したくもなく、語りたくありませんが、一つだけお話ししておきましょうか。 私はその頃女学校に通学していたのですが、いよいよ青森も危なくなって来たと言う事で疎開を進められ、母と妹と一 …

【伝えたい記憶】第23回 戦争「疎開先から見た青森空襲(Kさんの話)」

東岳村(現在の宮田・馬屋尻・矢田・滝沢地区)に疎開をしており、そこから青森空襲の惨状を見てしまいました。私は6歳だったけど、夢でも見ているのかと思って、自分の頬っぺたをつねってみたから、現実だったんだよね。 その日は蒸し …

【伝えたい記憶】第22回 戦争「幸畑村まで逃げてきた人たち(工藤ツヤさんの話)」

青森空襲は思い出したくなくても思い出される事だよ。私は10歳だったけど、青森が焼けるのをはじめっから見てしまったよ。きれいな線香花火が空いっぱいに広がってさ、それがゆっくりと落ちて行った所から火の手が上がったのさ。 まず …

【伝えたい記憶】第21回 戦争「野内村當古寺も攻撃される(秋庭正美さんの話)」

太平洋戦争当時、野内村には今でもありますが、石油の貯蔵タンクか何基も建っておりましたので、敵の攻撃目標とされて、村では唯一被害を受けた場所じゃないのかな。 空襲警報が発令されると、当時8歳だった母の弟は両親と姉たちと一緒 …

【伝えたい記憶】第20回 戦争「古川跨線橋から浪打小学校が見えた(棟方精子さんの話)」

私は女学生で、大湊に勤労奉仕隊でも行ったことがあるから、その当時の事はよく覚えていますよ。 あの青森空襲の日は、空襲警報が鳴ってB-29が焼夷弾を落としてから、青森から平舘まで35キロ、家族皆で夜通し歩いて逃げましたよ。 …

【伝えたい記憶】第19回 戦争「避難中、家族と逸れた男の子(西田トシさんの話)」

青森空襲の時私は3歳でしたが、防空壕の中で干したウドンを食べさせられた記憶がありますよ。私が防空壕の中で「腹減った。」と泣かないように、母はそれを持って避難したそうですよ。先ずは子供の事を一番に考えたそうだよ。 私の夫は …

【伝えたい記憶】第18回 戦争「空襲後の青森市古川近辺(石村和子さんの話)」

当時小学校2年生で、浪岡町の母の実家に疎開をしておりましたが、昭和20(1945)年7月28日に青森に帰る汽車が満員で乗れなかったのが幸いをして青森空襲をまぬがれました。でも、疎開先が浪岡の山側だったので、青森の焼けるの …

【伝えたい記憶】第17回 戦争「浪館地区の空襲(Tさんの話)」

小学校2年生の時に樺太から引き揚げて来て、家族で青森市古川に住んでいました。それから1年後に空襲に合ったのですが、今考えると、B-29が来てから逃げたので助かったのだと思いますよ。 何故かと思うでしょうが、B-29が来る …

【伝えたい記憶】第16回 戦争「爆撃された野内の石油備蓄基地」

空襲警報が村中に鳴り響き、一家で持ち山に避難しようとしている時、三男だけが、腰に木刀と出刃包丁を差して動こうとしない。いくら長男が殴ったり引っ張ったりしても、家を守るんだと言って、居間の板敷きの床に犬の字に寝てしまったの …

【伝えたい記憶】第15回 戦争「何日も燃えた野内の海(Kさんの話)」

戦争当時はまだ小学生で、青森市三内沢部に住んでいたのですが、戦争だと聞いてもピンと来ていなかった。 ある日外で遊んでいたら、飛行機が何機も編隊で飛んできたので、子供達がそれに向かって「万歳!万歳!」って叫んで手を振ったの …

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