主に青森市の古写真(絵葉書)や地図などを展示している、青森まちかど歴史の庵「奏海(かなみ)」の公式ホームページです。
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伝えたい記憶

青森市在住の張山喜隆さんが聞き取り調査をし、絵と文にしたもの。記憶違いや聞き間違えがあろうかと思います。種々、ご教示ください。

【伝えたい記憶】第30回 戦争「青森空襲の夜とその後(Sさんの話)」

青森空襲の時、私は昭和4年10月生まれですので16歳、青森電信電報局に勤めておりました。その頃はまだ電話は普及しておらず、金持ちや重要な役所や会社にしか電話はありませんでしたので、一番早い伝達方法は電報でした。電報とは一 …

【伝えたい記憶】第29回 戦争「野内の浜から青森空襲を見た父(三浦真理子)」

私の父、中畑二郎は、兵隊で戦地に赴いていたそうですが、結核を患い出身地の野内村に帰って来ていたそうです。母が言っていましたが、とにかく性格の厳しい人だったので、早く病気を治してともかく戦地に復帰しようと思っていたそうです …

【伝えたい記憶】第28回 戦争「弘前からも見えた青森空襲 木村義照(大正12年生)」

青森空襲の時私は21・2歳だったと思います。弘前の陸軍歩兵隊に居りました。「青森、燃えているぞ」の声で青森方面を見ると、もう青森の空は真っ赤だった。空一面、どす黒いピンク色だったと感じたな。それを見てまず感じた事は、「次 …

【伝えたい記憶】第27回 戦争「青森大空襲の避難者を助けた父(淡谷弘子さんからの聞き取り)」

青森大空襲の時私は6歳だったと思いますが、その時の父のとった行動は今でもよく覚えております。私の家は今の松森町に有りましたが、今と違ってまだ畑や田んぼが周りにいっぱいありましたので、青森中心部の人達が疎開をしに来ている人 …

【伝えたい記憶】第26回 戦争「顔にやけどをした叔母さん 沼田荻野さんからの聞き取り」

親戚の叔母さんの家は堤川河口付近の蜆貝町にあり、一家5人で漁師をしておりました。昭和20年7月28日は青森空襲がある日だと皆知っていたそうですが、家を焼かれても船で沖に逃げたら良いと思い、空襲警報が聞こえても誰も外へ逃げ …

【伝えたい記憶】第25回 戦争「浦町駅長だったおじさんの話(沼田荻野さんからの聞き取り)」

戦争当時伯父さんは浦町駅の駅長をしておりましたので、浦町駅近くの官舎に住んでいたそうです。 昭和20年7月28日は、疎開先から青森に帰って来る乗客が多くて、各駅停車の列車はどの列車も満員状態だったそうですが、夜になってか …

【伝えたい記憶】第24回 戦争「同年代の友の死(成田妙子さんの話)」

青森空襲の思い出は、あまり色々あって思い出したくもなく、語りたくありませんが、一つだけお話ししておきましょうか。 私はその頃女学校に通学していたのですが、いよいよ青森も危なくなって来たと言う事で疎開を進められ、母と妹と一 …

【伝えたい記憶】第23回 戦争「疎開先から見た青森空襲(Kさんの話)」

東岳村(現在の宮田・馬屋尻・矢田・滝沢地区)に疎開をしており、そこから青森空襲の惨状を見てしまいました。私は6歳だったけど、夢でも見ているのかと思って、自分の頬っぺたをつねってみたから、現実だったんだよね。 その日は蒸し …

【伝えたい記憶】第22回 戦争「幸畑村まで逃げてきた人たち(工藤ツヤさんの話)」

青森空襲は思い出したくなくても思い出される事だよ。私は10歳だったけど、青森が焼けるのをはじめっから見てしまったよ。きれいな線香花火が空いっぱいに広がってさ、それがゆっくりと落ちて行った所から火の手が上がったのさ。 まず …

【伝えたい記憶】第21回 戦争「野内村當古寺も攻撃される(秋庭正美さんの話)」

太平洋戦争当時、野内村には今でもありますが、石油の貯蔵タンクか何基も建っておりましたので、敵の攻撃目標とされて、村では唯一被害を受けた場所じゃないのかな。 空襲警報が発令されると、当時8歳だった母の弟は両親と姉たちと一緒 …

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