青森空襲の思い出は、あまり色々あって思い出したくもなく、語りたくありませんが、一つだけお話ししておきましょうか。
私はその頃女学校に通学していたのですが、いよいよ青森も危なくなって来たと言う事で疎開を進められ、母と妹と一緒に浪館地区に疎開をして、そこから毎日4キロ以上も歩いて女学校へ通学しておりました。その疎開先は農家の一軒家でしたが、もう一家族一緒に疎開をしておりました。そこにも私と同い年くらいの娘さんがおり、違う女学校でしたが毎日一緒に通学をし始めました。でも暫くするとその娘さんは実家に戻り、そこから通学をするようになりました。
空襲のあった昭和20(1945)年7月28日の朝、私はその娘さんのお母さんから「娘のいる実家に行って、『今日だけでも一緒に疎開先の浪館に帰って来てくれ』と言ってくれませんか。」と頼まれました。そこで私は学校帰りに聞いた住所の家を探しながら行ったら、そこは凄く大きな店とお屋敷で、奉公人や女中さん方も出入りしている所でした。私は中に入ってその娘さんを呼び出してもらって「お母さんが、『今日だけでも私と一緒に疎開先に帰って来て』と言っておりましたよ。」と伝えると、その娘さんは、「毎日暑い中を、土埃をかぶって通学したくないから、貴女も今日ここに泊まりなさいよ。」と言われました。でも私はその言伝を又、娘さんのお母さんに伝えなくてはならないと思い、その誘いを断って疎開先へ帰りました。
夜になるとやはり、B29爆撃機がいっぱい私達の頭の上を青森方面に飛んで行き、あっという間に青森は真っ赤な火の海にされてしまいました。私達はただ奥歯を噛み締めながら家族の安全と無事を祈るしかありませんでしたが、それでも次々と私の家族や親戚などが逃れて来て安心をしたのですが、その一緒に疎開をしている娘さん家族の方は、お父さんや奉公人達はそれぞれ逃れて来たようですが、娘さんと女中さん一人が、いくら待ってもその姿が見えないと言う事で凄く心配をしておりました。
次の日の朝早くに、そのお父さん達は娘さん方を探しに家まで出かけて行ったそうですが、昼過ぎに力なく帰って来て話してくれました。「家は焼けて無くなり、近所の人の話では、庭の防空壕の中で娘さん方二人は亡くなっていて、朝早くに三内の遺体置き場に運ばれて行ったと言ったので、すぐにその三内まで駆けつけたら、黒く焼けただれた遺体の中でも、娘さん方の遺体は確認できるほどきれいだったよ。」と言っていました。お父さんは娘さんに「防空壕には絶対入るな。外へ逃げろよ。浪館まで逃げろよ。」と言ったそうなのですが、最後まで言う事を聞かなかったのかと、肩を落として凄く悔やんでいましたよ。(絵・聞き書き:張山喜隆/平成29年4月22日)
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