青森駅の階段を降り、青函連絡船乗り場に向かう生徒たち

青森駅の階段を降り、青函連絡船乗り場に向かう生徒たち

修学旅行生を乗せた連絡船を見送る人々

修学旅行生を乗せた連絡船を見送る人々

昭和20(1945)年7月28日の青森空襲をくぐり抜けた旧家の蔵に収められていた1本の動画フィルム。フランス製で、コマ下の真ん中にフィルムを送る穴が開いた幅9.5㍉の特殊なものです。

その中に、昭和12(1937)年の青森市立新町尋常小学校の函館方面への修学旅行が記録されており、同校卒業生の方々の協力のもと、詳細が判明しました。青森駅の階段を降り、青函連絡船乗り場に向かう生徒や父母の中に、工藤直三郎校長(手前)の姿がはっきりと写されています=写真上。青森桟橋から離岸する連絡船を見送る場面=写真下=には、外崎あい先生(左上、眼鏡の女性)の姿も。紙テープで別れを惜しむことは、戦前も同じだったのですね。

写されている場面から、修学旅行のコースは、青森駅→函館駅→大沼公園→大沼電鉄鹿部停車場→鹿部温泉間欠泉と推定できます。大沼公園まで行くのは戦後の津軽地方の小学校の定番でしたが、戦前はさらに東へ足を伸ばしていたことに驚かされます。間欠泉の魅力がそうさせたのかもしれません。

新町小学校は青森空襲で焼失し、復興することなく、跡地は青森県立中央病院に使われ、現在は「青い森公園」となっています。青森空襲から70年に当たる今年、「歴史の神」はこの街にはまだ、貴重な歴史資料が埋もれていることを教えてくれました。そして、9.5㍉フィルムに記録された映像の真の歴史的価値について、私達はまだ、なにも気づいていないのかもしれません。(青森まちかど歴史の庵「奏海」の会会長・相馬信吉)