青森空襲の時、私は昭和4年10月生まれですので16歳、青森電信電報局に勤めておりました。その頃はまだ電話は普及しておらず、金持ちや重要な役所や会社にしか電話はありませんでしたので、一番早い伝達方法は電報でした。電報とは一度文章をモールス信号などで電信局に送り、それを又文章にして相手先に届ける仕事でしたので、私はそのような仕事をしておりました。しかし戦争が激しくなるにつれて、電報局が攻撃されたら大変だと言う事で、当時コンクリートでできた浪打小学校の講堂に一時避難をしている時でしたので、私はそこで青森空襲を目の当たりにしました。
昭和20年7月28日の青森空襲の時、私は夜間勤務だったので同僚達と詰め所におりましたら、一通の電信が入り、それを文章にしましたら「敵飛行機が飛んで来ている。」でした。私がその一方を最初に受けましたのでびっくりしました。青森にはまだその姿が到達しておらず、どの方向から来るのか分からなかったので、皆で空を見上げて「何処だ、何処だ。」と言っている間に、何処からともなく空一面に、低くて響くようなゴロンゴロンと言うエンジン音が聞こえて来て近づいて来たなと思っていたら、爆弾を落とした音が聞こえて来ました。夜の8時頃だったと思いますが、職場の皆が外へ出て見たら、安方や青森駅方面から火の手が上がっているのが見えました。空にはまだまだ大きな爆撃機が何機も飛んでいて、それからバラバラバラバラと焼夷弾が無数に青森市内に落とされているのが見え、それが花火のようにきれいだったので、つい見とれてしまいましたが、火の手が段々とこちらの方に迫って来て、あっという間に青森市内は火の海に飲み込まれてしまいました。これは大変な事になったと思い、皆は浪打小学校の職場に戻りましたが、道路を一本隔てた向かいの家まで火事は延焼して来たので、職場の皆は気が気ではなかったが、風が変わったのか火力が段々と弱くなったのが見えました。でもその熱は窓越しでも感じられたので、窓にも近づけない状態でした。それでも自分達は助かったと思いました。
年下の兄弟は疎開をしていたので大丈夫だと思いましたが、今度は家に残っている姉や両親の事が心配になりました。でもまだ外は赤々と燃えたり燻ぶったりしているので外へは出られない状態だったのです。
翌29日朝4時前だったと思いますが、まだ日が昇る前でした。先輩が、「お前たちは今から帰れ。」と声を掛けられましたが、まだまだ外は危ないと思っていたので、同僚と二人、恐る恐る外へ出て見ると、浪打小学校前は全て焼き尽くされ、その熱気が冷めていないので道路も熱くて歩けない状態でした。でもともかく類焼しなかった道を探しながら堤川までたどり着きました。しかし全て建物と言う建物は焼きつくされておりましたので、今自分達が何処にいるのか方向も分からない状態になったので、線路の上を歩く事にしました。線路の山側は田んぼや畑がありましたが、海側は全てが焼け跡で、屋根が落ちた蔵の壁やビルの残骸だけが焦げた状態で残っており、後は全部がぺしゃんこになった感じで、燻ぶる煙の中にずっと遠くの海まで見えました。私の家は沖舘篠田にありましたので、とにかく左に山手、右は海手で進むと良いと思い西に進みました。しだいに浦町駅が見えて来て駅は残っておりましたので距離感はつかめましたから、そこからは旧線路通りを歩きました。でもその旧線路道路を古川方面に向ったら、そこはまるで地獄でした。今まで線路の上を歩いて来たのが、そこから焼け跡の中を歩く事になったので、黒焦げになった死体や荷車がゴロゴロと転がり、焼けてしまった自動車の残骸が道路を塞ぎ、焼け跡の臭いと煙がまだ漂っていました。
やっと久須志神社に辿り着き、そこで同僚と別れて自分は古川跨線橋へ行きその坂道を上りました。その一番高い所で後ろを振り返り、焼け野原になった青森市の全貌を目にしました。最初は「これは何だ?」と思い腰が抜けそうになりましたが、自分が今歩いて来た線路伝いに見ると、先ず同僚の家が焼けておりました。そして浪打小学校の黄色い建物が見えて堤橋が見えて、海の港側にはビルの残骸や蔵の残骸が焦げて立って居る他は、家と言う家が全て亡くなり、炭の山になっており、人気は全く感じられませんでしたので、急に自分の家が心配になりました。合浦公園や八甲田山のすそ野がそこから見えたのですから驚いてしまいました。後で聞いた話ですが、公会堂や蓮華寺も残ったそうだが、その時には焼け跡にしか見えませんでした。久須志神社の手前には大きなごみ焼き場がありましたが、それと青森駅から西側にはまばらに家らしき物が見えておりましたので、前に進む気だけはありました。
跨線橋を降りて沖舘篠田側に曲がると、又焼けた家が二三軒あったので、益々自分の家はどうなっているか心配しながら歩きました。工業高校近くだったので、角の家を曲がったら自分の家が見えたので、やっと安心をして家に入ろうとしたら、玄関の真ん前の道に、焼夷弾の燃えカスが突き刺さっておりました。家に入ると両親が心配をしておりましたが、自分の顔を見るなり安心をして、昨夜の事を教えてくれました。その状況は、焼夷弾の親玉が目標より早く落ちたのか知れないが、線路より西側の三内や沖舘にも数個落ちたそうで、自分の家の裏の畑にも落ちて、一メートルも深く突き刺さったとか。そのお陰で火は燃え移らなかったし、玄関前に落ちたのは、運良く火の噴射口が向こうを向いてくれていたとかで家が助かり、凄く幸運だったから助かったとの事でした。
空襲の次の日、母は食べる物が何もないからと言って、大豆を煎った物を私に手渡しました。それをポケットに詰め込んで仕事へ向かったのですが、跨線橋の上から焼け跡の青森市の光景を見たとたん、仕事に行きたくなくなって、海の方へ歩き出しました。空襲の次の日だったのでまだ道路も何も片付かず、生きている人達もただ茫然としている人が多かったです。私は海を見に海側の倉庫の方に歩いて行ったのですが、焼けた倉庫の中に焦げた缶詰の缶が数個見えました。それを拾いに中に入って見たら、30個ぐらいの缶詰が転がっていましたので、ポケットの風呂敷を広げてそれを拾い集めて背負い、すぐ家に引き返しました。そしてそれを父に見せると、父はリアカーを引いてそこへ行く事にしたそうです。そして帰って来た時には、焦げて半分焼けた米俵と、焦げた匂いのする色々な食べ物を拾って来たので、それで当分家族は助かりました。
また姉は、電話局に勤めておりましたが、その同僚の家が焼失して住むところが無いと言う事で、家の部屋を貸す事でわずかな家賃が入って来ました。
空襲の次の日はそんな事をした後仕事場に行きましたが、今度はいつものように国道を歩いて行きましたら又大変な光景を目撃してしまいました。新町小学校の水槽の中や防空壕の中で死んでいる人や、中央郵便局角の近くにあった複数の防空壕の中では、数えきれないくらいの焼死体がトラックに運ばれているのを見ました。
その後終戦になりましたが、9月何日か忘れましたが、アメリカの兵隊が町に入って来て色々な所に検問所を作りました。町全部がアメリカに仕切られてしまいましたので、自分達の仕事は朝早かったり夜遅かったりの仕事なので、特に怪しまれて、県庁前のかまぼこ兵者の前ではライフル銃を突きつけられて、取り調べを受けて凄く恐ろしかったですよ。戦争って本当に良い物じゃないよ。戦争にまで持って行かないように気を付けないといけないと思うよ。(絵・聞き書き:張山喜隆/平成29年7月24日)
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