主に青森市の古写真(絵葉書)や地図などを展示している、青森まちかど歴史の庵「奏海(かなみ)」の公式ホームページです。
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あおもりなつかし写真帖

【あおもりなつかし写真帖】第10回 「昭和初期の子ども エンツコに赤ちゃん」

この写真は、昭和4,5年頃に青森市油川で撮影されたものです。写りがしっかりしているところから、専門の写真屋さんなどに頼んだもののように思えます。子供たちの服装からして、一般よりは少し富裕な家庭の子供たちのように見えます。 …

【あおもりなつかし写真帖】第9回 「昭和40年代の青森ねぶた 昼運行も大勢の跳人」(2015年7月31日)

青森ねぶた祭が現在のように全日程合同運行となったのは、昭和43年(1968年)からです。コースも国道・橋本〜古川間から新町へというものでした。また、青森県庁前の歩道に有料観覧席が設置されたのもこの年からです。 上の写真は …

【あおもりなつかし写真帖】第8回「攻撃受ける青函連絡船 乗組員131人が死亡」(2015年7月24日) 

「青森空襲を記録する会」が活動を始めたのは、空襲から35年経過した昭和55(1980)年のことでした。第1回青森空襲展を昭和56年7月、青森市の「五拾壱番館」で開催するにあたり、在日アメリカ大使館へ、青森空襲の写真が保管 …

【あおもりなつかし写真帖】第7回「49年前のねぶた 歴代3名人の作品」(2015年7月10日)

このカラー絵葉書は昭和41年(1966年)8月7日青森ねぶた祭 最終日、昼の運行七日日(なぬかび)の様子です。この頃は、8月3日から7日までの開催で3日・4日は子供ねぶた、大型ねぶたの合同運行は5日・6日・7日に限られ、 …

【あおもりなつかし写真帖】第6回「禁じられた避難と防空法 」(2015年6月26日)

太平洋戦争中の焼夷弾攻撃への消火方法は、バケツリレーで水や砂をかける、竹箒(たけぼうき)で火の粉をたたくなどでした。しかし、アメリカ空軍大型爆撃機B29の空襲には全く役に立たず、逆に犠牲者数を多くしました。昭和20(19 …

【あおもりなつかし写真帖】第5回「岩木山の雪形 40体以上住みつく 」(2015年6月12日)

写真上は昭和31(1956)年5月30日に弘前市郊外で撮影された田植えの風景です。津軽の農村では“猫の手も借りたい”、一年で最も忙しいときです。 背景の岩木山山頂付近にはいくつもの雪形(残雪)が見えます。このうち一番右側 …

【あおもりなつかし写真帖】第4回「八甲田山の雪形 農作業の段取り示す 」(2015年5月22日) 

200年ほど前の春、江戸時代の紀行家・菅江真澄(すがえますみ)は青森の村々を巡っていました。三内で縄形や人の仮面をした古い瓦{三内丸山遺跡}を 見たあと、くっきりと山容を見せる八甲田山の残雪模様が、コメ作りの適期を教える …

【あおもりなつかし写真帖】第3回「弘大医学部発祥の地 校舎活用 何度も転用 」(2015年5月8日)

この写真は昭和38(1963)年12月に青森市松原地区で撮影されました。右手に写る線路は昭和43(1968)年までこの地区を走っていた東北本線で、現在は跡地が遊歩道緑地となっています。左手に見える建物は、青森市立松原中学 …

【あおもりなつかし写真帖】第2回「戦後復興する青森市 本格的な車社会へ」(2015年4月24日) 

上の写真は昭和20年代末に、青森市栄町の国道4号に面していた店先を撮影したものです。「新学年用品大売り出し」の看板が見えますから、雪が溶けて間も ない3月後半頃でしょうか。学生帽やカバンなどを買い求める人々で賑わっていま …

【あおもりなつかし写真帖】第1回「戦前の東奥日報社社屋 洋館風 空襲で焼失」(2015年4月10日)

平成27年4月から平成28年3月まで25回にわたって、東奥日報社の金曜日(毎月第2・4)夕刊に青森まちかど歴史の庵「奏海」の会会員が中心になって、「あおもりなつかし写真帖」と題し連載したものです。 2階建ての軒先から垂れ …

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