主に青森市の古写真(絵葉書)や地図などを展示している、青森まちかど歴史の庵「奏海(かなみ)」の公式ホームページです。
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伝えたい記憶

【伝えたい記憶】第10回 戦争「空襲の夜幸畑の家の庭から(小泉さんの話)」

幸畑で生まれて今までここに居るから、もう90年もいるけど、あんなにきれいな花火は見た事が無いと言えば語弊もあるかと恩うけど、実際の話、きれいだし恐ろしいし、もう二度とあんな物は見たくないと思った。 丁度夕方で夕涼みがてら …

【伝えたい記憶】第9回 戦争「青森空襲の夜 柳町を逃げた(斎藤さんの話)」

私は大町で金持ちのお嬢さんで育ちました。青森空襲の前に、爆弾を落とすとビラがまかれたんですよ。父は私達に山に逃げろと言ったんですが、わがままな私は言う事を聞かないで、その目も振り袖を着て過ごしていたんですよ。 そうしたら …

【伝えたい記憶】第8回 戦争「空襲の次の日(母の兄、正夫の話)」

空襲の日、母の兄は二度目の兵役から生きて戻って家にいたが、野内村も石油タンクがあるために爆撃をされたので、家で死ねれば本望だと思って覚悟を決めたそうだ。でも兄弟達を安全な所に移動させなくてはならないので、家を離れることに …

【伝えたい記憶】第7回 戦争「気がつけば野苺の中」

敵の飛行機が飛び去るのを、その場所で小一時間位隠れて過ごした。セツさんは、「テルさん、まだ出ちや駄目だよ。」と言って私を引き止めるようにしてしがみ付いていた。暫くすると小鳥の声がして来た、風のざわめきも聞こえて来た。私は …

【伝えたい記憶】第6回 戦争「戦闘機の操縦士の顔」

私たちを襲った戦闘機は暫く上空を飛んでいたが、間もなくその影は無くなり、草むらの陰でセツさんとやっと顔を見合わせる事が出来た。セツさんはがたがた震えていたが、私の顔を見ると急に泣き出して抱きついて来た。私は大きく息を4い …

【伝えたい記憶】第5回 戦争「家路の途中」

空襲の夜の夜勤が明け、家路に就こうと思ったが、果たして実家は残っているのだろうかと不安になった。でもここに居ても危ないし、とにかく実家のある野内村に帰ろうと思い、焼野原の外に出ると、同僚のセツさんが慌てて後を追って来て、 …

【伝えたい記憶】第4回 戦争「青森空襲の次の日」

  青森電務区の夜勤だった母は、その夜一睡も出来ずに、朝日の中に煙る無残な青森市の焼跡を見る事になった。 先ずはうっすらと明るくなりかけた東の空に、そこからは山頂しか見えなかった東岳が麓まで見え、続いて見えるは …

【伝えたい記憶】第3回 戦争「青森空襲の夜」

母が二十歳の頃、青森駅の電話の交換手として、電務区と言う所に勤めていたそうだ。青森空襲の日は、丁度夜間勤務の目だったので、午後の5時頃から勤務に入ったそうです。 それから間もなく、母の電話交換台に、新潟管区から呼び出し信 …

【伝えたい記憶】第2回 戦争「青森空襲 前田さんの記憶」

その当時私は女学校を卒業したばかりでしたが、役所の人が家に来て、「小学校の先生になってくれ」と頼まれて、別にやる気も無いまま先生をしていました。 そんな時、急に生徒達を雲谷方面に疎開をさせると校長が言いだして、遠足のよう …

【伝えたい記憶】第1回 戦争「校庭にも高射砲」

戦争中は校庭にも高射砲があり、小学生達が毎朝登校する時間に、兵隊達が7〜8人くらい整列をして号令をかけ、国旗に敬礼をしていたそうです。学校でも体育の時間は、もっぱらバケツを使った消火訓練と、竹槍を使った突撃訓練をしていた …

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