◆青函連絡船廃業

先祖の墓探しで函館へ飛んだ1998年は青函連絡船が廃業となった年で、青森商業高校同窓生たちが函館での同窓会を計画していた。私はそれに便乗した形で墓探しを兼ね参加した。お陰で3月13日の最終の記念となる連絡船に乗船することが出来た。特に浜町生れの私には青函連絡船の思い出は数多く、その頃は北海道への旅は青函連絡船なしでは考えられないことだった。野脇中学校の札幌・函館への修学旅行も寺山と一緒だった。寺山はなぜか無帽で、その頃すでに私より十数センチ背も高く、クラスのリーダーだった。

最も鮮烈なのは国民学校時代の同級生のMさんが米軍のゲラマンの機銃掃射で亡くなった事件だった。戦争とはどんなに人類を不幸にするものか今の日本では原発も恐ろしいが、北朝鮮のミサイルも本当に脅威そのものだ。

◆曾祖父と祖父

明治27年の青森大火(167棟焼失)、明治43年5月2日の大火(5200棟焼失)の二度の大火に遭遇し、火災保険のなかった明治期の中三中村はこれでかなりの財を失ってしまった。曾祖父兼次郎は浜町五丁目に小規模な旅館を再建、祖父慶次郎の代(昭和3年頃)までは営業を続けていた。

特筆すべきは浜町界隈の消防団「に組」の頭をこの二人は継承して勤めて来た事実である。当時はねぶたの参加費用の全てを負担し町民を喜ばせていたようだ。しかし祖父の代で旅館を廃業してからは組頭の座を界隈でも信用の厚い大町の武内喜兵衛氏に託し、現在二代目が活躍している。

◆浜町界隈

戦前の新浜町には青森駅からの引込線が専売公社の塩倉庫へと続き、そのすぐ北側は海で小さな桟橋もありよく魚釣りをして遊んだ。隣りには公会堂もあり各種の催し物も行われた。戦時中は国内で撃ち落とされた米軍のB29の飛行燃料タンクや機内の部品等の展示、日本戦勝の勢いを示していたが……?また聖徳公園も並び明治天皇ご来青の記録の石碑も残され、安方には漁港もあり今は無き魚市場も盛況を極めていた。青森駅から続く大桟橋、また沖合には青函連絡船が数隻停留するそんな浜町界隈で、浜町の料亭に暗い陰がさした時期だった。

◆戦後のドサクサ

祖父は親なしの私を気遣い、祖母といち早く避難疎開させ、終戦当時は下湯温泉の山中で暮していた。疎開先ではあまり不自由もなく、戦地の叔父には陰膳を供えそれを毎日傷痍軍人がコッソリ食べに来る。そんな日々が続いた1945年7月28日夜、米軍の焼夷弾による大空襲が青森を焼き尽くしたのです。下湯の地からは真っ赤に燃えている青森の空、たまにパラパラ見える黒い焼夷弾の影。祖父の身柄も心配だっが、一週も過ぎた頃、乳母車になにがしかの物を積んで下湯の山へ登って来た時には感涙だった。その時祖父は61歳、軍人生活の長かった彼は近所の住民を海に逃がし空襲に耐えていたと話していた。

8月15日終戦、我々は下湯の山を降りた。青森市内は丸焼け、浜町五丁目の我が家は焼け残った「蔵」を生活の場としたが、進駐軍が来て新浜町の公会堂を司令部としたことから、浜町五丁目北側の全区画は接収され蔵はブルドーザーで壊され、たちまち米軍のカマボコ兵舎等が立ち並んだ。

我々家族は東津軽郡小湊町の親戚を頼り一部屋を間借り、私も小湊国民学校へ転校した。小湊での記憶は食糧調達に大変苦労が見えたことで、1946年祖父が青森市八重田に家を購入し私は造道小学校へ転校、担任は小堀先生だった。翌1947年に祖父は浜町六丁目(我が家の貸家の在った土地)に新築し転居したが、小学校は変らず現員や大坂町から開校に通う生徒と共に開校を卒業した。6年の担任は木村先生で水泳で有名な方だった。私のアートヘの目ざめはこの頃で自分の色使いが他人と違っていること、また木村先生に評価されていたことが自信に繋がったように思う。

◆寺山との再会

寺山は1学年二学期の初めから野脇中学校に来た。1学年の時には現在の松原の市民センター辺りにあって、学校は昔の医専の校舎を間借りしていた。二部授業が行われ朝から学校へ通う日と、午後からの日とに分かれていた。寺山とは幼稚園、国民学校時代の顔馴染だったこともあってすぐ仲良しとなった。後の記録によると1学年の一学期には現在三沢市の古問木中学校で1年生ながら学級新聞の編集をするなど活躍をしていたようだ。それが9月の末頃突然姿を消して登校しなくなったと記されている。多分母の関係で急がざるを得なくなったのであろうと想定出来る。(つづく)

※青森市のタウン誌「北の街」2017年11月号に掲載されたものを、執筆者の中村慶一さんの許可を得て掲載しました。記して、中村さんに感謝申し上げます。