青森湾で攻撃を受ける青函連絡船「翔鳳丸」

青森湾で攻撃を受ける青函連絡船「翔鳳丸」

「青森空襲を記録する会」が活動を始めたのは、空襲から35年経過した昭和55(1980)年のことでした。第1回青森空襲展を昭和56年7月、青森市の「五拾壱番館」で開催するにあたり、在日アメリカ大使館へ、青森空襲の写真が保管されていないかを問い合わせました。開催直前に、「写真5枚が見つかり、ワシントンから三沢米軍基地へ送った」との連絡が入り、三沢米軍基地ゲート前で写真を受け取り、急ぎ展示しました。以来、アメリカの国立公文書館に多くの関係写真が残っていることを知り、空襲写真蒐集活動を始めました。

アメリカから届き展示した写真の一枚が、今回紹介します「青森湾で攻撃を受ける青函連絡船翔鳳丸」です。昭和20(1945)年7月14日、青函連絡船が攻撃を受け全滅しました。青森湾では翔鳳丸、飛鸞丸、第二青函丸、第六青函丸が攻撃を受け、青森市民の目前で131人もの乗組員が死亡しました。この中には当時、14、5歳の函館船員養成所大沼支所の生徒も含まれており、市民の涙を誘いました。

この連絡船全滅に市民は青森空襲が近いことを予感し、次々と郊外に疎開を始めました。これに対して、行政や警察は「期日(7月28日)まで自宅へ戻らないと配給を止める」、「空き家になったところは取り壊す」などの警告を発しました。食糧を絶たれ、住む家が無くなったら困る市民は、泣く泣く疎開地から自宅に戻らざるを得ませんでした。そして、昭和20年7月28日の青森空襲では、1000余名の尊い命が失われました。(青森空襲を記録する会会長・今村 修)