日本に対するアメリカ軍のB二十九爆撃機の空襲は、最初は日中、高高度から軍事工場・施設を中心とする「精密爆撃」が行われていましたが、効果が上がらないとして、司令官のハンセルを解任し、ルメイに代え夜間に低空で無差別絨毯爆撃を行う方法に変えました。

そして、空襲する都市の順番は、昭和十年の国勢調査に基づき、人口の多い順に百八十番まで番号を付け、その一回目が昭和二十年三月十日の東京大空襲です。以後、人口の多い順に従い夜間に低空で無差別絨毯爆撃を行っています。この順番によると、青森市は四十七番、八戸市が六十五番、弘前市が九十八番目となっていますが、B二十九爆撃機の飛行能力から、出発基地のサイパン・テニアン島からの飛行では、平泉周辺が限界で以北の空襲は困難でした。 

そのため、空襲予定地から、原子爆弾投下予定都市(京都含む)や、遠距離の青森県や岩手県、秋田県、北海道の都市が、また、夜間爆撃の困難な都市が除外されました。これは、空襲を調査研究してきた奥住喜重氏や工藤洋三氏が、米軍の文書の中で明らかにしています。

その後、硫黄島が米軍攻撃で陥落し飛行場が建設され、飛行距離が半減したため、青森市は硫黄島を飛び立ったB二十九爆撃機により空襲されました。

しかし、七月二十六日にはポツダム宣言が発せられ、東北・北海道の都市でB二十九爆撃機の空襲を受けたのは、青森市と仙台市、秋田市土崎(石油基地)の三都市でした。戦争がもっと長引いていたら、八戸市や弘前市など東北・北海道の都市も空襲で焦土となっていたと思います。

青森空襲