青森の昔の食べ物座談会「あの頃、何を食べたか?! 終戦前後の窮乏生活」 やぶなべ会 編集部
と き: 2013 年 6 月 10 日
ところ:青森市堤町「花祥」
出 席:五十嵐正俊(昭和8年生まれ)、五十嵐 豊(10年生まれ)、徳差 幸広(11年生まれ)、棟方 啓爾(11年生まれ)、小山内 孝(12年生まれ)、室谷 洋司(15年生まれ)、山道 忠郎(18年生まれ)、工藤 芳郎(22年生まれ)、扇野千恵子(25年生まれ)


「やぶなべ会報」の第22号(2007)から、「やぶなべ座談会」として「青森の水環境」とか「青森の昔の遊び」などを連載してきた。昨今の私たちを取り巻く環境は様変わりの状態で、生き物たちの多様性は失われ、そのなかでのひとびとの暮らし方を見ると昔日の感がなんと強いことか。いや、それも「やぶなべ会」会員の一桁台会員のかたにはそのように思い出させ、くだって 20、30代の方々には薄っすらと、さらにより若い会員には想像もつかない、といわれても致し方がないだろう。これら一連の企画は、そうだからこそ活字に残していこうという会員の意見だった。
 前回の「昔の遊び座談会」での最後に、昭和20年代の、お菓子などがほとんどなかった時代に、子ども達はおやつとして何を食べていたのか、ということになり、野山にふんだんにあった雑草の若葉や夏から秋にかけて実る木の実などを思い出しながら話し合った。そのとき、出席者から“食べ物こそ生きる原点ではないか”ということになり、特に終戦前後の窮乏時代の食べ物を、それぞれの体験にもとづいて記録しようではないかと、今回のテーマとなった。
 座談会記事を読みやすく構成する場合、なかに絵とか写真などが挿入されたほうが読みやすいし、理解しやすい。ところが今回のテーマでは、そのようなビジュアルな手法がなかなか難しく、皆さんにはかったところ、それは所詮、無理なことで、“我々が、もの心がついたときからの生活史、とくに食についてジックリ語ろう”とか“戦前と戦後の食べ物の大違い”などについて出来るだけ詳しく出し合い、それを記録することに大きな意味があるのではないか、ということになった。ただ、文章がギッシリ詰まっただけでは窮屈なので、やぶなべ会のアーカイブスから適宜、数枚を選んで掲載した。


どこでもニワトリ、ウサギは飼っていた
室 谷(司会) この前は、昔の遊びで前編、後編をやったが、遊んだあとは食べ物ということで、これはとても時間が少ない、独立したテーマで話そうということになった。「やぶなべ会」という名前が示すとおり、そこには驚くような話がいっぱいあるような気がします。最高齢の五十嵐正俊さんから。
五十嵐(正) 私のウチでは、たまたまニワトリを飼っていた。戦前でもタマゴは自由に食べることができた。それと好物は煮豆。毎朝のように天秤をかついでチリンチリンと朝早く煮豆を売りにくるひと、オフクロにおねだりをして50銭玉ひとつで煮豆を買って食べた。これが戦前の一番の思い出。
室 谷 すばらしいものを食べていたんですね。
五十嵐(正) 飼っていたニワトリを潰すでしょう。このスープはすごい。油、油滴ですね、これが浮かんで裸電球がキラキラ映るくらい。たまたまオヤジが安方にあった函館低温倉庫に就職させて貰っていた。船が入ってくると船員から現場の人へちょっと置いてゆく。とくに美味しいのはクジラの肉です。シロナガスクジラの尻尾の方ですが、これをサシミで食う。ステーキのようにして弁当のオカズにもした。そういう面で食生活は、あの時代でも恵まれていた。
――(出席者から:はあー、恵まれ過ぎですね!)
五十嵐(豊) 確かにウチにはでっかい鳥小屋があったね。
室 谷 すごい、これではまったくの恵まれすぎで、次の話が出てこないんじゃないですか。小山内さん、恵まれない話をしてください。
小山内 私は新城国民学校に入ったころで、昭和18年ころですね。住まいは岡町でした。どこの家でもニワトリは飼っていて、ウチでも飼って卵をとった。卵は栄養剤のようなもので、どうしてもあの頃は栄養失調が問題で貴重なものだった。ウサギも飼っていて、カレーライスのときに潰して食べたりして、これは美味しかった。
棟 方 自給自足です。卵は病気にならないと食べられないもの。
小山内 我が家では5、6羽。当時は、いいたいことは栄養をとるのにかなり苦労したこと。病気になれば牛乳を飲むというのは最大のご馳走、あれはどこから仕入れてきたのか。まわりに溜め池があって、そこにはフナとかコイがたくさん養われていたようなもの。渇水期というか 7月頃ですか、沼を干してべらぼうな量の魚が採れて、分け合ってバケツに入れ持ち帰った。
室 谷 どういう食べ方を。
小山内 煮て食べたが、多すぎて生臭く、母親に怒られたりした。
室 谷 徳差さん、筒井のほうの話を。
徳 差 ウサギ、ニワトリは飼っていた。ニワトリは放し飼いで夜になればちゃんと小屋に入る。卵は食べるんだが、ウチのオヤジは殺生を嫌う。自分の家で肉を食べた記憶はない。ほとんどが魚中心で近くを流れる例の藤兵衛堰に川魚がいっぱいいて、そこを止めて魚を採った記憶がある。
五十嵐(正) ニワトリの潰し方にはコツがあった。父が得意だったが、首の後ろに親指を当て一ひねりして腹を思いっきり引っ込ませ抱える。その腹に力を入れると首の骨(頚椎)がはずれ血管も切断。首の中で出血して即死状態。足を掴んでぶら下げ血抜きも完了。熱湯をかけると羽が簡単にとれる。最後に燃やした藁で毛を焼く。最初はオヤジがやっていたが、オヤジから教わって自分がやることになった。
五十嵐(豊) ニワトリの餌として未熟なコメ(シイナ)に野菜の屑などを一緒にグズグズ煮て作った。この中にジャガイモが入っていたが、それを探して食べるのが楽しみだった。これ、兄貴が言わなかった。たしかにウチはミニ養鶏場のようで名古屋コーチンなどのヒナを取り寄せて飼っていた。
五十嵐(正) 小屋のなかに卵がある程度まとまると、新聞紙でくるんで配達をしたりした。近所から買いにくるひとも多かった。
棟 方 五十嵐家の歴史で養鶏場のことは初めて聞いた。
五十嵐(豊) 小屋の中で卵を産むところがあってそこに集まっている。それを拾いにいくのがオレの役目だった。
五十嵐(正) ニワトリには習性があって卵を産むと、けたたましく鳴くんですよ。


筒井では肉類をあまり食べない
徳 差 食糧不足の頃のニワトリの卵というのは殻がブヨブヨしていて、殻になっていない。子ども心に瀬戸物でもなんでも砕いて食わせれば殻になると思ったりした。カルシュウムということになるんだが瀬戸物を、かなづちで砕いたりした。効果があるはずもないのだが。ウサギは自分のウチで食べることはなかった。ほとんどが魚中心で、だから私は大きくなれないんだ、と思ったりして。魚は、春はニシン、冬はホッケ。もちろんサンマとかイワシなども。
室 谷 筒井は海から遠かったでしょう。
徳 差 わざわざ町に買いに行くのではなくて行商があった。病気になると母親がオカユに卵、マガレイを食べさせてくれた。筒井というところは割合、肉は食べなかったという気がする。食べ物での一番の思い出はケノ汁だ。これはあとで話が出ると思うが。ほかに植物ではデンシ、スイバのことですね。ちょっと酸があって。サシトリ、これはイタドリですね。これも食べた。
山 道 五十嵐さんが言ったニワトリの潰し方は、ここでは詳しく言いませんが父からは別の方法を教わった。私の兄弟は6人で8人家族。弁当のオカズに卵を煮たやつを持っていった。ニワトリは 20羽ほど、家は橋本のど真ん中。私は兄弟の真ん中で、小学高学年あたりで餌づくりから全部やった。春にヒナを買ってきて育てる。秋になるともう大きくなり潰すのは雄鶏から。父がやってくれたが中学になるとオヤジにやれと言われた。足をつるして羽をばたばたしないように縛って。残酷で詳しくは言いませんが、やっぱり血をうまく抜くのがおいしく食べるコツ。それから祖母が大館出身で、我が家ではキリタンポをやった。ご飯を棒で刺して炉の炭火で焼く。いまなんか店で売っているけど、これがひじょうに思い出ぶかい。小学校1~2年の頃、昭和25年あたりで遊びに行って帰ってくるとハラペコです。オヤツがなにかと考えたとき、今の今川焼きですか、あれに似たオヤキを作ってくれる。あれは美味しかった。中に入れるアンコがなくて味噌が入ったオヤキを食べる。その後、砂糖がなくてサッカリンを使ったりして。味噌が入ったのを思い出します。


竜飛:コメがない、上等なアワビは交換用
小山内 昭和19年、竜飛国民学校に行った。オヤジの転勤です。そこで一番の難儀はコメがない。竜飛の部落は、コメを獲得するのが一番の苦労。戦前から戦後にかけて主食はジャガイモ。高台の山の方に植えていた。そして殆どが物々交換の時代で、スルメ1っぱと何かとの交換。主食が手に入らない。配給で12キロも離れた三厩まで行って、それでも手に入るのはコメではない。干しアンズやトウモロコシ、サツマイモ、砂糖など。魚などはいっぱい採れるが、これでは商売にならない。なるのはアワビの大きいやつです。したがってアワビの大きいやつは竜飛の人は食べない、すべて売り物です。楽しみに食べたのはツブ、タマキビとかイシタクミ、レイシなどですね。おいしいと思ったのは海藻の若いやつ。クロフノリの小さめのもの、ワカメとかコンブでも若生えがおいしい。オジヤみたいなものにして食べた。ここでは、そのように過ごした。海産物での思い出はサメ(アブラツノザメ)、サメの卵を食べたが初めは良いが、何度か焼いて食べているとムツくておいしくなる。冬になるとヤリイカがおいしかった。メザシはよく食べた。小学校の校長の官舎は、部落の集会場のようなもので人が集まってきた。メザシやヤリイカを持って集まってくる。主食のコメがない、そういった生活だった。そうそうサメで言えば、サメの飯寿司がおいしかった。いまでは食べることができないのでは、作っている家はないでしょう。


ガッパラ餅、ストギ、スイトン・・・・。
扇 野 蟹田はね、魚が毎日で子どもの頃、一番いやだったのはカナガシラでした。骨ばっかりで食べるところがない。お汁にすると美味しいが。オヤツですが、ガッパラ餅ってありました。
棟 方 オレのオフクロもガッパラ餅を作った。メシを潰して。
扇 野 ご飯を潰してやるのは、また違うんです。
棟 方 それ、文化が違うんだ。
扇 野 コムギ粉をこねて砂糖を混ぜてフライパンで焼くんです。それをひっくり返して、ミルクの入らないホットケーキのようなもの。おコメを潰してやるのは別の呼び方だったような気がする。
山 道 あまったご飯を、ソバの粉とやるのもあったのでは。
扇 野 私たちは、それはソバ粉でなくてデンプンでやりました。すると粒がちゃんと見えてくるんです。キレイで美味しいというか。
徳 差 筒井も同じ。デンプン入れてヒツメ方式でやる。
室 谷 当時はデンプンというキレイな言葉で言いましたか? イモノハナとか言わなかった?
棟 方 食べ残したご飯をすり鉢でつぶして黒砂糖を入れて作ったオヤツもあった。
扇 野 ジャガイモが出たが、これも余るとつぶして黒砂糖を入れて別のオヤツを作った。これすごい大好物でした。
室 谷 結局は何でも余ったものを使って、それをその家のオヤツにしたということ。
徳 差 ストギってあったでしょう。ムギ粉で餅のようにして中にアンコを入れて、囲炉裏のアク(灰)の中に入れて焼く。
棟 方 ストギはアクの中に入れなければダメだ。フライパンでもやるが、あれが一番。
徳 差 アクの中に入れて、もう焼けたかな、って取り出して熱い、熱いって食べる。
室 谷 アンコの話が出たが、アンコは砂糖がないと塩を入れたりした。甘くはないけど、結構、素直な味だった。兄弟が多いので、それを五つとか均等に分けたりした。全部、食べないであとで温めて食べる。
五十嵐(豊) さっき囲炉裏の話が出たが、町の家ではアク(灰)が入った囲炉裏なんてなかったでしょう。
棟 方 あったんだ。囲炉裏がないとストギの本当の美味しさは出てこない。
室 谷 田舎の高田ではでっかい炉(ロ=囲炉裏)があった。大きいロにはタキギを燃やし、もうもうと煙が出た。ここには天井がなく茅葺屋根の北側に開口部がありそこから煙が出る。ここは居間で一段、高くなったところから茶の間(客間)、寝室、仏間と続き、茶の間から天井がある。茶の間には小型のロがあって、これには煙が出ない炭を燃やす。
五十嵐(正) 私のオフクロは盛岡の粉屋の娘。私らの小さいときは家の中にソバ粉を入れる大きな箱、ソバはいつもあった。ソバ打ちもやって、釜のなかでソバ粉を練ってそれをあぶる。
五十嵐(豊) ソバ粉に熱湯を入れて練る。これをちぎって醤油をつけて食べた。
五十嵐(正) 徹底的に練って、スイトンを作ったりした。
徳 差 オレ、雲谷に親戚があってソバ粉を貰って母親がソバを練って食べさせてくれた。
棟 方 いま、センベイ汁なんていうけど、オレのオフクロが作ったスイトンからみるとセンベイ汁なんて、なんだあれ、問題にならない。
工 藤 この話、カットした方が良いのでは!
山 道 センベイ汁についてひとつ。実はオレのルーツは八戸なんだ。それが青森に定着したんですが、それでセンベイ汁は、むこうはコメがとれない時代で、その後、戦後になってだんだんとれるようになって。このセンベイ汁が今になって、懐かしい味になったというか、美味しいし話題になっている。
徳 差 そのルーツを言えばヒツメなんです。 2番目の姉が五戸に嫁に行った。そこからヒツメがきて、母親はシツメ、シツメと言ってコメ粉を練って、適当な大きさにして鍋に入れて食べさせた。それは非常に美味しかった。
 このシツメ、南部がルーツなんだ。最近になってB級グルメとかなんとかでセンベイ汁に発展してきた。本来の姿はヒツメなんだ。はじめはムギ粉で、それをコメでもやったということ。
五十嵐(正) カゼインが出来るまでよくこねる。すると伸びるんだ。キュッと手のひらに伸ばしてヒラヒラになって、それを切り取って鍋に落とす。
小山内 今の日本人の食生活は、なにか堕落してきたという感じ。どういうことかと言うと、豚肉、牛肉とかあまりにも美味しいものが手に入るようになり、それだけを食べる飽食の時代なのではないか。これは少数意見でみんなの理解が得られないかもしれないが。
工 藤 当時の食べ物についてみんなが言ってしまったが、もうひとつ、干し餅ってあるね。あの余ったのを水に漬けてガッパラ餅のようにフライパンで油をしいて作った。春先になると干し餅の食べ残しがあるね。それ、このようにして食べた。砂糖も入れた。何でも絶対、無駄にしない。
棟 方 それも大切な文化。
工 藤 それから、ウチはニワトリを3羽飼っていて、白色レグホンとゴマ鳥、これプリマスロックですか、それに名古屋コーチン。ゴマ鳥は体格が大きい。餌は、ウチは米屋だったからコメの砕けた奴だとか、ハコベなどを食わせた。猫のヒタイぐらいの小さな所に花を植えていたが、その葉っぱも食われてしまう。鳥は正月に(大晦日)絞めて食べた。夜店通りの店から雛を買ってきて裸電球を入れて、寒いときに暖めて育てた。これは正月用になる。私は可哀そうで殺すのは見たくなかった。


ウサギ、イヌ、ミガキニシン・・・・。
室 谷 徳差さんの場合も海は遠いが、私の場合は、8キロは離れている。農村地帯だからコメはあまり困らない。話に出たニワトリは、これは高級な食べ物だったと思う。正月とか特別の日に食べるもの。野菜など植物食が多いなかで、冬場はノウサギが蛋白源になった。針金を円くして罠にするクグシなどで捕まえる。専門にとる人は猟銃を使う。山里だからこれができる。ニワトリは野放しで、ハキダメ、生ゴミなどの捨て場ですね、ここで数匹は育つ。隣のニワトリが、敷地など境界などはないからウチの家の縁の下など乾いた土を円盤状に掘ってそこに卵を産む。これを見つけると子供たちはニンマリでそれを頂く。卵に小さい穴を開けてチュウチュウと吸い取った。卵は高級で大変な贅沢品を口にした感じ。あれはさっきも出たが病人の栄養食ですね、当時は。それから犬も食べませんでしたか?
五十嵐(正) 食べたことがない。
徳 差 赤イヌは美味しいといわれた。
棟 方 食べましたよ。「やぶなべ会」以外でも食べた。
室 谷 山里の田舎では、ときどきイヌだ、といっておすそ分けされたことがあった。要するに肉類というのは非常に少なかったわけで、イヌも食べる場合があった。毛皮は防寒着として利用された。ネコを食べるというのは聞かなかった。当時は牛とか豚などは一般的な食材になっていなかった。これは昭和20年代のこと。
小山内 食べるというか、かじってみないと食材としての味は分からないと思う。
室 谷 その豚ですが、その頃、町では上等な食材になりつつあったと思う。というのはバサマ(祖母)が、ウチの土間に囲いを作ってそこで豚を飼っていた。どこから手に入れたのか分からないが、子豚をもってきて、そこで残飯だとかダイコンとかハクサイの菜っ葉を大きい釜でグズグズと煮て食べさせていた。我々、子ども達にとってはソレ!悪臭そのもの。そう言うと、ずいぶん怒っていた。自分の小遣いを稼ぐためにやっていて、何を言う、といった剣幕だった。丸々と太ったときにそれを買い取る組織が村にあったらしい。
 司会者として、あまりいう機会がないのでまとめて言います。徳差さんの筒井も農村地帯ですが、私の高田の方はずっと田舎です。魚の行商もくるが、こういうことが年中行事でありました。
 春でしょうか、最初は荷車に載せてニシンをいっぱい積んで、ウチの庭は広いものですからここに来て、村人たちが集まってきます。そこで皆が大量のニシンを買っていきます。各自がそれぞれの軒下に吊るしてミガキニシンを作る。ミガキニシンがあればずっと食べることが出来る。干したばかりの生乾きのときはハエ類がいっぱい卵を産んで、間もなくウジが出てくる。もっと乾くとウジは死んでしまう。からからになると保存がきくわけ。
五十嵐(正) あの生乾きのニシンはあぶって食べると美味しかった。


進駐軍:アメ公がやってきた。チューインガム、チョコレート。
棟 方 戦時中というか戦後間もなく、食ったものの最高の思い出はコールタールだった。進駐軍が森紅園(当時あった遊郭)に行くとき自宅前を通った。そのときチューインガムなどをくれる。オレはこれがいやだった。あの夏の暑いとき舗装道路が光ってコールタールが流れている。向かいのオヤジなんかは日の丸とタバコを交換したりしていた。あれを見て子ども心にこれはダメ、だけどチューインガムを食べているのをみて口が淋しい。そこでコールタールを。
小山内 進駐軍は竜飛の要塞にもきた。初めは皆んな隠れた。ところが、にこやかにして初めはチューインガム、そしてチョコレートでしょう、石鹸も。子どもには歓迎された。私は上陸用舟艇に乗って、沖のべらぼうに大きい船に行った。キャンデーを貰って、プールに入って、まあまあ彼らは大変な生活だった。
棟 方 食べ物に限定すれば彼らは大変なモノを食っていた。県庁前の兵舎で、ドラム缶のような大きい入れ物に残飯がいっぱい入っていた。
小山内 オヤジが日本軍の物品(ドンブリ、皿などの軍隊用品)の管理をやっていて、これスゴイ。アメリカの進駐軍のものと思うが大量のコンビーフがあって、甘くって美味しい。コンビーフというのはこんなものかと。軍隊用の大きい缶にいっぱい入っていた。それにキャンデーも貰った。
室 谷 これは空襲でやられた青森市のほうぼうでの光景だったと思う。私は市街地から離れた田舎だった。熊野宮という神社があって、そこは子どもの遊び場。牛馬が引く荷車しか通らないところに風のように幌をつけたジープがやってきた。確か、親たちは近寄るなと言ったと思う。ところがほどなく子ども達は手なずけられてしまった。アメリカ人という初めて見るでっかいヒト、黒いヒト。そしてものすごいスピードのジープ。ワラハドはそこに群がった。ガムにチョコレートにキャラメルなどと見たこともないお菓子を持ってお宮の方から帰ってくるワラハド。貰わなければ損とやってくるワラハド。
棟 方 青森の空襲の被害だが多くの人が死んだのは、疎開したひとには「配給はない」(当局から)と言われた。それで疎開先から戻ってきた人が多かった。それでやられた。アメリカ軍は、その日やるとビラで忠告していた。
五十嵐(正) 7月28日まで帰らないと配給ストップという内容らしい。
工 藤 配給ってなんですか? 私、昭和22年生まれですから。
五十嵐(正) コメとか食料は全部、配給制だった。
小山内 それで、われわれは竜飛、食料を貰うには歩いて三厩まで配給を受けに行った。
棟 方 それで足りるはずはない。着物と交換するとかで南部の千曳まで行って食料とか必要なものを調達してきた。
室 谷 田舎の家は広い屋敷のなかに母屋とかさまざまあった。母屋にはわれわれ家族が 10人ちょっとがいくつかの部屋に住み、ほかの大小四つの部屋を家族数に応じて 4家族が入った。外には農機具とか馬用の萱葺きがあって、そこも何箇所かに仕切られていたので2家族が疎開した。他に土蔵とか味噌蔵とか風呂、薪などを入れる小屋みたいなものがあって、最高時にはこれらも使われたと思う。疎開できた子どもたちと、裏の畑とか小川で遊んだりした。大人たちは、日中は町に出て、自分の家がどうなるか見回りに行ったりした。家族たちは無事、帰ってくるか心配していた。空襲の翌日には焼夷弾の空になったのを持ってきて、こんなものが無数に降ってきて家並みは焼けてしまった、と言っていた。大人たちは8キロも歩いて町と疎開先を往復していた。
棟 方 オレの家は町中でも焼け残った。あれに5世帯いた。オレは廊下に。
五十嵐(豊) 棟方の家は玄関を入るとずっと廊下があったね。
棟 方 とにかく焼夷弾というのはスゴイ、目的とする箇所だけを焼き尽くしてしまった。
徳 差 ヤードは残した、焼かなかった。米軍は全部分かっていたんだ。
棟 方 食料の不足状態も全部、把握していた。腹がへっているから盗むとか、そういう時代だった。淋しい時代、イナゴを食べるなんて当然。


柏木吾市の本:食用野草が792種
五十嵐(正) 話題は戦後に移ったようだが、我が家は戦後は 10人家族だった。コメは1合を雑炊にして10人家族で食べた。
五十嵐(豊) お粥にする。ダイコンの葉っぱなど上等なものはなかったので、裏に生えている雑草、クローバー、アカザなどを入れて食べた。田舎にダイコンなどを貰いに行ったが、なかなか呉れない。それで今で百姓さんには良い感情をもっていない。それからイモとかカボチャだとかを食べるようになった。毎日毎日、カボチャやイモの生活だったので、今でもそれらには抵抗がある。
棟 方 いま、カデメシの話をしているがコメがないんだ。それで何を食べていたかをしゃべりたい。
五十嵐(正) 食糧難の時代。私は土地勘があった。浪館、三内の方へ行って毎日、山菜採り。持っていく弁当がない。コヌカにちょっと水を加えて練って、フライパンで焼いたのが弁当がわり。
棟 方 それは幸せ、こっちは何もない。何を食ったかな・・・・、カボチャ。
五十嵐(正) カボチャはまだ良い方でしょう。
棟 方 いやいや、このカボチャも南部の方に行って着物と取り替えてきている。
室 谷 ここに、青森営林局が出した「三陸地方の食用野草」という3巻で出された本がある。昭和21年で、皆さんの先輩の柏木吾市さんが書いた。このときの局長が佐藤正氣。序文には、”終戦間際になって食うものがない。何としても営林局の総力をあげて山野に生えている食べ物、食べ方をまとめてお知らせしよう。”青森・岩手・宮城3県の各地に散らばっている営林署が全部、協力して柏木さんが整理・編集した。全部で 792種の食用野草があげられている、キノコも含めて網羅している。毒のものもリストにして注意している。昭和20年が終戦、食べ物はなくなっていく、このままでは大変だ、と。何年かして良くなったが当時は、これらに頼らざるを得なかったのではないか。
棟 方 これ大変な本です。神田で高い値段がついているのを見た。柏木さんは良い人だった。このように自然に興味をもって、それを活かしたいい人だった。
五十嵐(正) 私が営林局に入ったときは、文書係の筋向かいに編纂係の小部屋があって、そこに常駐しておられた。あの頃はもう退職して顧問みたいだった。
棟 方 共済会の顧問だったかな。
室 谷 柏木さんは、この前に「三陸植物志」をまとめていて、それを母体にした食用版ですね。
工 藤 戦時中とか戦後はこうだったんですか。
棟 方 今、飽食の時代だ。これからは温暖化で大変なことになる。これは大切だ。全部、昔からの土地の人の知識をもとにしている。
小山内 生物的にいうと、あのウニの卵は美味しいとか、あらゆるものの卵を食べる。邪道だ。
五十嵐(正) ワラビなどはあんなにポリポリ食べてはダメ。旬のときにちょっと食べれば良い。フキは大いに食べなさい。アレは良い。
棟 方 そう、料理の仕方もさまざまある。植物繊維があって体に良い。
五十嵐(正) 我が家では数年分、蓄えた。保存は塩蔵が最高。採ったら虫が食っていないかどうか見る。同じ長さにして鍋で沸騰させて15分間。皮をむく。このときヨモギを入れる。すると手が黒くならない。皮をむいて水にさらしてアク抜き、それで塩漬けにする。数年間は大丈夫です。食べるときは脱塩、流水で適当に1日ないし2~3日。
徳 差 ある程度、湿ったところに行って採るが、真っ直ぐのは綺麗、でも繊維が硬い。脇に出たのが虫が食っていないので良い。
工 藤 私は塩漬けにして一年分くらい。家族二人だけだから十分。
五十嵐(正) 真っ赤で長いのも最高。あれを切ると透明感がある。ゆでて皮をむき、水に漬けると青くなる。
徳 差 ウチのとなりにものすごくフキが出る。赤フキでいつも頂戴する。ゆがいても赤い。水に入れると青くなる。しかもそれがやわらかいんだ。最高、キレイだ。
扇 野 赤いのはモチフキと言うね。ダメだと聞いたけど。
棟 方 いや、すべて植物学上はアキタブキです。ちょっと酔ってきた、しゃべり足りない。あの頃の一番の思い出は、魚で沖からくるやつ、そうスズキだ。 10歳ぐらいのとき法定伝染病にかかり、隔離された。急性脳脊髄膜炎。これ今はあまり出ないが、当時は栄養失調だったから。あれにかからなければもっと頭が良かった。オヤジが筒井の診療所に連れていって、それから沖館の病院に移った。10日ぐらい入院、快復して戻ってきてオフクロの妹、飛鳥に嫁いだオバが見舞いで持ってきてくれたのがスズキ、美味しかった。今でもこれを超える料理はないと思っている。
五十嵐(豊) オレは釣った思い出がある。
棟 方 食べ物がないからオヤジが釣りにいく。営林局(現森林博物館)の横の川でハゼを釣ってきた。


ケノ汁は最高の味
室 谷 さっき出た柏木吾市さんの「三陸地方の食用野草」ですが、この第3巻に春の七草が出てくる。おなじみですね。「せり なづな すずしろ すずな ほとけのざ ごぎょう はこべら これぞ、ななくさ」
 これって、日本人の食の心のふるさとだと思うんです。それぞれの季節に摘んできては食べた。ほかのものに混ぜて食べた。七草かゆ。これと同じというか、ごちゃ混ぜに食べる、皆さんの心に残っている「けの汁」にいきましょう。
徳 差 ケノ汁の共通性、私のルーツをたどると徳才子という所があって、為信に追われて津軽半島に逃げていったという。その人が筒井にきて藤兵衛堰を作った徳差藤兵衛というか徳差一族ということになる。それで、上磯の方とすごく共通性があって、言葉でも蟹田では「ホダキャ」というがこれは筒井にもあった。
扇 野 それ、ありました。
徳 差 上磯と共通する、油モチ、ネリ込みなども。ネリ込みというのはジャガイモとか油揚げなどを入れてカタクリ粉でからめて食べた。
室 谷 ケノ汁の話ですよ。
徳 差 それ、ケノ汁。これに大体入れるのはゼンマイ、ワラビ、ゴボウとかが入って決定的に味を良くするのはズンダが必要だと母が言った。大豆です。ズンダは煮てすり鉢ですって、むかし火棚があってズンダはここで乾かしておいた。小正月、女の正月ですね、このとき作った。このズンダが入るかどうかで味が決まった。これを入れないのはまずい。
五十嵐(正) いま、ズンダをケノ汁に入れると言ったが、我が家ではササゲ豆を入れた。味は大豆かササゲ豆で大きく違った。
五十嵐(豊) ササゲ豆は赤い豆だ。あれは甘いんだ。
工 藤 質問。きのうワラビ採りに言ってきて先輩から、あのケノ汁はワラビでなくって必ずゼンマイを入れなければならないと。味が違ってしまうんだ、と。
小山内 ワラビよりゼンマイの方がはるかに栄養がある。ワラビは酵素を破壊するものがある。ゼンマイはそれがない。はるかにゼンマイの方がすぐれている。
徳 差 ケノ汁だが、嫁が保存食ということで一週間も実家に帰っても家族が食べられるようにと。
室 谷 いぱい作って、家の北側におく。メンジャというか台所は食べ物が腐らないように気温が低い北側にあった。そこは冷蔵庫がわりで、冬場は、ケノ汁をいっぱい入れた鍋の水面には氷が張っていた。それから小出しに小さい鍋に食べるだけをとって、暖めて食べた。
徳 差 お汁にもなるし、酒のつまみにもなった。
五十嵐(正) 最近は暖かいので冷凍しないと。あれにコンニャクを入れるでしょう。冷凍するとコンニャクはダメだ。
室 谷 冷凍、それはちょっと。やはりメンジャに置いた氷が張ったのがケノ汁の懐かしい景色だ。
棟 方 大きい樽に漬けて、氷が張ったのを割って取り出す。あのダイコンの漬物、懐かしい味だ。


蟹田でデンプンづくり・・・・強烈な思い出
扇 野 思い出はデンプンを作っていたこと。蟹田川の土手で、デンプンの機械があって、それが記憶に残っています。ヤマセが吹いてコメが余りとれなくて、ジャガイモを沢山つくっていました。それで作るんです。夏になるとコウナゴを干す。どこのものか分からないんですが、それをオヤツみたいに食べました。いま考えるとあんなに美味しいコウナゴはない。
棟 方 蟹田というのは太宰が戦後よく立ち寄ったところで、オレは 5年いたが楽しかった。人生で最高に飲んだ。
小山内 私も蟹田には1年住まいした。べらぼうに楽しかった。木戸食品の人とか青森工業高校の定時制にいて教え子がいっぱいいる。北海道で学んだが、青森に帰ってくる気はなかった。父が帰って来いというので、ここが学校づとめの始まりです。山も川も日曜日になれば平舘まで自転車で行った。定時制だから、生徒はほとんど大人で、しょっちゅう飲んだ。アズマヒキガエルの鳴き声がすっごく、町全体がこれに包み込まれていた。今だと考えられない。
扇 野 そうそう、カエルの鳴き声はすごかった。


「やぶなべ会」の食文化
室 谷 いよいよ「やぶなべ」の食文化です。やぶなべ会、ゲテモノ、小舘善四郎さんの絵のなかのフクロウと剥製、二唐さんのネコ、などと私の先輩から聞いたメモには何がなんだかよく分からないことがいっぱい書き込まれている。
棟 方 そう、これから本番です。
五十嵐(豊) 私も、きょうの座談会の話は、山で食べたさまざまな食べ物の話だと思っていたが、なかなか出てこない。どうしたんだ、と思っていた。
五十嵐(正) 北隆館の本で剥製の作り方というのがあって、たまたま青森営林署の新城苗畑の主任がハンターで、よく鳥を捕ってくる。それを剥製にして勉強した。肉の方は食べる。オシドリ、カモ、キジバト、ニワトリ、スズメ、ノスリ、ヤマドリ、キジ。こういった 20種ほどの剥製を作った。一番、美味しかったのはオシドリ。このスープは最高級です。これは禁鳥で採られなかったけども、ハンターになりたての人だから間違って、オシドリか何か区別がつかなかった。昭和30年前後。ノスリというのはヤマドリの肉に似ている。キジとヤマドリを比べるとヤマドリが全然、美味しい。野っ原に放したニワトリも美味しい。ムササビもネズミも剥製にした。
室 谷 これは、高校を卒業してからですね。生物部の最初の「やぶなべ会」は、今では考えられないものを食べていたと聞くが。
棟 方 ゲテモノ。やぶなべ会はゲテモノを食べた会。貴重な体験ですよ。もう肉じゃないんです。長靴の底を入れたりした。
五十嵐(豊) そんなの入れないよ。
棟 方 いや、話題に入っているんです。食べなかったでしょうが。美味しい材料はあまりなかった。
徳 差 被害者の方からしゃべるけれど、十和田湖一周の夏休みキャンプで、テントを張ったのは蔦、石ケ戸、子ノ口、休屋まで行って、全部歩き。それから(湖の)向かいの滝ノ沢、黒石の板留に泊まって帰ってきた。行く前は打ち合わせをして何を何人分持つとか、とやったが、食料が尽きてしまった。休屋ではヘビを食べた。漁師が朝にヒメマスを網で捕ってきた。フナとかコイを捨てていたので棟方が漁師から貰ってきた。フナのお汁を作った。ヘビもお汁に入れた。全部、切って初めてヘビを食った。
五十嵐(豊) シマヘビでしょう。
棟 方 そう、アオダイショウというのは生臭くてダメ。
徳 差 美味しかったかどうか覚えていないが、違和感は何もなかった。骨だらけだった。それから肉をしゃぶって食べた。
五十嵐(豊) 器用なのはオレだから、ヘビもフナもオレがやったんでないか。
徳 差 下山先生(顧問)は休屋まで来て、ビールを飲んで、それで帰って行った。
棟 方 そのとき、初めてビールを飲んだ。こんなまずいものをと思った。漬物のつゆのような味。
五十嵐(豊) 本当に不味かった。冷えていなかったからでないか。
徳 差 あれはまずかった。今、先生は生徒の前で飲むなんてないでしょう。
小山内 私とか葛谷氏のときは(顧問の)、学生は飲んでいたかどうかわからないが。田代の湿原をみて、夜はホタルを見たり、その後はそれぞれで、顧問たちはビールを飲んだ。
徳 差 先生と生徒は、要するに信頼関係の問題だ。
室 谷 ビールはさっき、漬物の汁のような味と言ったが、それで五十嵐さんはトラウマになってビールを飲まなくなったと。
五十嵐(豊) そう、酒を飲むようになってからも、しばらくはビールを飲まなかった。
室 谷 小舘善四郎さんのフクロウというのは、どういう話し?
棟 方 岩谷政良さんのところによく行った。浅虫です。それで彼はフクロウを持ってきた。彼もオレも絵が好きだ。先生(小舘画伯)に頼まれたといって剥製を持ってきた。剥製をつくるひとに、オレが仲立ちして誰かに頼んだんでしょう。そのとき、その肉を食べたかどうかはハッキリしないんだ。
五十嵐(豊) それは生物部のときの話ではなくって個人的なものだったと思う。
棟 方 それから二唐さんのネコの話もあった。あのときは、ああいうムードになってしまった。
山 道 私の時代もネコをやった。文化祭で展示するために解剖をしたりして。捕えてきたのはどうも近くの飼い猫だったようなんだ。そのひとは青高の先生なんですが、不審に思ったのか何回も展示を見にきていました。
棟 方 二唐さんだが、彼は責任感の強いひとで、ネコがどうしても必要ということになって捕まえてきた。
五十嵐(豊) それ、どうして殺したかな。針金で首を絞めた?・・・・。
棟 方 違う。キシロールで麻酔した。(脱脂綿に含ませて)噛ませたがなかなかうまくいかない。さすが三上はあわてていた。最後は絞めたたんだ。(実験のためだったが)命を貰うということは大変なことだ。
徳 差 あれも飼い猫だったようだ。どうしても文化祭で必要だということで真剣だった。
棟 方 あのときはネコの骨格標本を作り、文化祭で展示するということだった。
五十嵐(正) 鈴木が作った骨格標本もあったはずだ。彼は骨格標本づくりが好きだった。そのとき私と彼は、その肉を食べた。
棟 方 我々も食べた。生物教官室があって、隣が部室だったが、教官室のストーブで煮て食べた。 5人ぐらいで食べた。
五十嵐(豊) 当直の先生が来て、何だというのでニワトリの肉だと言って食わせた。見なければいいものを、そばにあった新聞紙のなかを見た。そうしたらネコ。ギャーと言って、トイレに入りゲゲゲと吐いていた。
棟 方 そのあと、外でニャアーンとネコが鳴いたんだ。みーんな、ハーッ、ホーッ、とため息をついた。
小山内 そうなんだ。今だったら考えられないこと。このようにして昔、命というのを知ったんだ。
扇 野 私も、そう思った、今。
五十嵐(正) 私がネコを食べたのは昭和25年、まだ戦後の食糧難時代が進んでいた。あの頃は何もなかったんです。
小山内 あのー、原発がいま言われているが、あれに至るまで2000回位、核実験をやっている。それがどういうことだったか。何事でもその前にひとに言えないようなことがらが、いっぱいあったんだ。
室 谷 皆んなは、生物というか動物の解剖実験とか骨格標本づくりから生物の仕組みを知ろうとした。目標がそこにあった。それと、あの大変な(食糧難)時代とがマッチしていた。色々な話が出ました。今では考えれれない食料も出た。これもまったく同じことで、このように隠さず、記録を残すということは大事なことと思う。


教え込みより、自然のなかで感じる
棟 方 今日の話はすばらしい。それでもっと哲学的な話、食べ物、されど食べ物。食文化という、きょうはそこまで踏み込みたかった。これは健康と人生を左右するもっとも大事なものだから。
小山内 自然に対する考え方、レイチェル・カーソンの「センス・オブ・ワンダー」。カ-ソンはもっとも大事なことは、「知ること」は「感じること」の半分も重要ではない、と「感じること」の重要性を言っている。自然の中での感激、実感、これが学ぶことの前の基本。今の世の中にはこれがなくて、教育で教え込みでしょう。一番は、自然のなかで感じることです。
棟 方 食文化はワンダーなんだ。
小山内 色んな味わい。もともと人間にはそれが備わっている。美味しさが、苦いとか不味いでなくて、人間の文化は苦さも甘さも、本質的に感覚としてもっている。
棟 方 それで、ヨーロッパ人は4味、アメリカ人は3味、日本人は10味と言われる。
小山内 日本人の味覚の方がはるかにすばらしい。それが堕落してしまった。ウニなんかの卵が美味しいとか、ウニ丼が美味しいとか、あれは味覚の堕落だと思っている。辛いとかいやなものを美味しいと感じるようになったのが文化だと思っている。ウニとかタラコとか、あのような卵を食べるのはやめてほしい。
(完)

この座談会は、”自然を見つめるやぶなべ会”発行の「やぶなべ会報」(第33号、2013年)からの転載です。転載をご承諾下さいましたやぶなべ会の皆様に感謝申し上げます。