1.「世界のムナカタ」の聖地、閉館?   

 まさか。目を疑う。棟方志功記念館、閉館? 頭が真っ白になった。

 青森県民と青森市民の願いの結晶の記念館。その建物も庭も、志功の生前の希望を叶えた特別なもののはず。閉館する日が来るなんて、信じられない。

 私は幼いころ青森市民だった。1974(昭和50)年に筒井小学校に転校して、その年の9月13日に志功が亡くなった。2ヶ月後の11月16日、青森市民葬が盛大に行われ、翌日に記念館がオープン。それは志功の魂が生身の身体から記念館へ移り宿ったかのような劇的な開館だった。人々はこぞって館に足を運び、彼の功績を称え、その死を惜しんだ。「志功さん」の遺業と伝説がまちに溢れ、語られ、それは幼い私の骨身にまで浸みた。記念館や市内各所で棟方作品に触れ、私は8歳で志功ファンになった。

 大人になり、青森県を訪れる人たちを案内して金木の太宰治記念館「斜陽館」、三沢の寺山修司記念館とともに、松原の棟方志功記念館へ何度も行った。県立の文学館があっても太宰や寺山の記念館に行きたい人が多いように、県立の美術館があっても志功の記念館に行きたい人は後を絶たなかった。そして旅人が「世界のムナカタ」の生誕地で聖地の青森市と記念館の魅力を教えてくれた。

 鎌倉の棟方志功板画館が2010年に閉館すると、全作品を引き受けた棟方志功記念館が世界一の志功作品収蔵館になった。来る2024年は志功没後50年、開館50年を迎える。が、それを待たずに県美に作品を移し、来年度で閉館するのだという。

 もちろん県美が棟方作品を守っていくことは、いいことだろうと思う。棟方志功は青森県民の大切な宝、それはゆるがない。

 でも、それでいいのか青森市民よ。

 県とともに開館準備を進め、松原の土地を提供し、庭の手入れをするなど記念館を長年支えてきた青森市。隣に市民図書館、向かいに市民センター、そして志功の「わだばゴッホになる」の碑のある平和公園と、記念館とその周辺こそ文化と芸術を愛する青森市民の象徴と誇りの場所ではなかったか。歴代市長が記念館の理事に名を連ねてきたのも、志功こそ青森市の名誉市民第一号だったからだ。

 もしコロナ入館者減と、建物老朽化だけが問題なら、青森市はまず市民に知らせて協力を仰ぎ、財団に助言し、県とともになんとか館を後世に遺そうと努力する立場にあるはずだ。青森で生まれ、青森を愛し、青森の先人に愛された名誉市民の棟方志功。その聖地を未来の青森市民に残さなくていいのだろうか。


2.もうひとつの「棟方志功記念館」

 この 9 月、富山県南砺市の福光に行ってきた。 そこは棟方志功が一家で戦中戦後の 6 年 8 ヶ月を暮らした町だ。  

 以前から気になっていたのだが、この7月に棟方志功の初孫で研究家 の石井頼子さんに青森でお目にかかった時、「2 年前から福光に住んでい ます。よかったらどうぞ一度いらしてください」と声をかけていただき、 いてもたってもいられず出かけたのである。

 行ってみれば福光は青森以上に「棟方志功のまち」だった。9月に生 まれ 9 月に亡くなった志功を偲ぶ「棟方まつり」も今年で 6 回目。ゆかりの光徳寺では命日に毎年法要をするので本堂には笑顔の志功の写真と 秋の草花が飾られ、鈴木大拙記念館館長の講話にも大勢の人が詰めかけ ていた。修復された志功の襖絵「華厳の松」の迫力は言い尽くせない。

 翌日の特別記念講演は、石井さんがコーディネーターで青森県立美術 館の杉本館長が招かれ、青森と富山の風土や北前船による絆など魅力的 なお話をされた。

 その後の南砺市長との対談には、特別に大原美術館の大原謙一郎氏も 登壇し、富山と倉敷と青森がつながる未来を描く対談となった。

 町歩きボランティアの人たちが案内する駅や商店など、福光のあちこちに志功の文字や足跡が残り、記念レリーフや志功のお菓子まであった。

 郊外の南砺市立福光美術館の常設展示には立派な棟方志功コーナーが あり、その分館として町の中心部に棟方志功記念館「愛染苑」がある。

 ここも古い建物だが、軒先には手作りの金魚ねぷたがいくつも飾られ ていた。敷地内には志功が疎開中に暮らした小さな家が大切に保存され、 民藝館と棟方資料館まであった。そのすぐ近所に石井さんが住み、研究 を続けていらっしゃる。石井さんを包む町の人たちの信頼とあたたかい 敬慕は、そのまま、かつて志功一家に注がれていたものなのだろう。  

 皆さん観光のためというより、素直に土地の誇りとして志功を慕い、 語り継ごうとしている。青森から来たというと「わざわざ志功さんの故 郷から…」と喜び、お土産まで持たせてくださった。

 来年の棟方志功生誕 120 年の記念展示は富山県立美術館から始まる。 それから青森県立美術館へ移動し、その後東京に行く。近年の民藝ブー ムの波にのり、棟方志功ブームも再来の予感。さあこれから、という時 に青森の記念館が閉館すれば、福光の記念館が世界で唯一の「棟方志功 記念館」ということになる。

 ああ、なんとか青森県立美術館の分館、または青森市の美術館として 棟方志功記念館を存続できないだろうか。そして福光の記念館と姉妹館 になり、倉敷の大原美術館の棟方志功板画館とつながって、3 地域の子 供たちが棟方志功を軸に交流できたらどんなにいいだろう。


3.「モダン青森」松原の建築群

 「棟方志功記念館」というのはかけがえのな い名である。病床で志功自身が気力をふり絞っ て書いた文字をもとに、銅の銘板の看板がつくられた。棟方自身がそれを見ることはなかっ たが、開館からずっと記念館のシンボルとし て高く玄関に掲げられている。
 
 1975(昭和 50)年 11 月 17 日、棟方志功 記念館の開館式は向かいの青森市民文化セン ターで行われた。この市民文化センターは 1968(昭和 43)年の青森市制 70 周年のモニュメントとして竣工され、翌年完成している。 中には次代を担う子供たちに宇宙への夢を、 との願いからプラネタリウムが設置された。

  今年の夏に久しぶりに行ってみると、タイム トラベルしたように昭和のままだったことと、 いまだにたくさんの親子づれでにぎわっていることに驚いた。センターは今も市民に愛され続ける、貴重な青森市の宝だと知った。

 当時の「広報あおもり」を読めば、松原地区は「市民の文化、教養、学習、いこいの中心地となり、文化センターはわたくしたちの生活にうるおいを与える総合的な市民の殿堂となるでしょう」とある。

 さてそういう場所に、まさに文化のシンボ ルとして建てられた棟方志功記念館は、開館後すぐに内外で大きな話題となり、当時の皇 太子(現在の上皇)ご夫妻や、昭和天皇、各国の駐日大使なども次々に訪れている。  

 記念館の隣のかわいい赤い建物は旧市民図書館だ。棟方志功記念館と同じ年に完成している。図書館がアウガに移転する前、ここも多くの市民に愛されていた。  

 こんな昭和の素敵な建物群がまとまって残る松原地区は、ずいぶん個性的で魅力ある「モダン青森」だ。今は 50年の歴史でも、あと50年残せば 100年の歴史になる。建物は大きすぎず、住宅に囲まれ、学校も近くに多く、すぐ側には平和公園もある。上手にリノベしたら子育て世代が住みたくなる街になる。  

 そして旧青森市民図書館は、青森市立版画美術館にしたらどうか。世界に誇る「版画のまち青森」なのだもの。今純三や関野準一郎からナンシー関まで、数多くの青森市ゆかりの版画家の作品の展示室があって、版画やアートのワークショップ室があって、それから棟方志功のミュージアムショップとカフェがあればいい。看板メニューはやっぱり志功が大好きだった「熱っつ飯さ塩引きの鮭」と「熱っつ飯さ筋子」の定食。珈琲やお抹茶セットもあるといい。  

 富山福光には棟方志功のお菓子がたくさんあったが、生誕地の青森でも棟方菓子があればいい。夢は小さい羊羹10本詰め合わせの「釈迦十大弟子羊羹」。昆布や林檎やホタテや嶽キミや、青森の名産10種類で…など妄想は広がる。  

 夢の広がりついでにいえば、棟方志功とチヤ夫人のNHK朝ドラである。「ゲゲゲの女房」を観ていた時からの夢で、あんな風に志功の 鯉や鷹、仏や天女がアニメになって動いたら いいなと思っていた。志功はこれまで渥美清や片岡鶴太郎、劇団ひとりなど、人気俳優が 演じ、そのたび大きな評判を呼んできたが、今回はぜひ初の青森県出身ペアに正調津軽弁で演じてもらい(例えば志功をシソンヌじろう、チヤ夫人を駒井連とか)それが棟方志功没後50年の2024 年に放映されたら最高だ。 記念館隣にはちょうど NHK青森支局もあるし、 シャモリにも協力してもらって、ぜひ NHK朝ドラに棟方志功を!そのときのためにも、やっ ぱり棟方志功記念館と松原のモダン青森建物群は残っていてほしいのだ。


4.第九と緞帳(どんちょう)、芸術県青森の顔

 去る12月11日、リンクステーションホール青森(青森市文化会館)に、3年ぶりに「第九。」が響き渡った。青森第九の会による40回目の演奏会、久々のオーケストラの生の迫力とマスクをつけて力一杯歌う合唱団の姿に胸が熱くなる。再び3年ぶりに演奏したり歌ったりできる「歓喜」に満ちた200余名の奏でる音楽は会場を力強く包み込んだ。

 演奏を聞くうちに、「自分が死んだら白い花と第九を聞かせてほしい」という晩年の棟方志功の言葉が思い出された。舞台の幕は上がったままだが、ここには志功の「宇宙頌(うちゅうしょう)」という4人の女神のダイナミックな緞帳がある。今日の復活演奏、きっと志功も喜んでいるだろう。棟方志功記念館や「わだばゴッホになる」の碑がある平和公園は、このホールから徒歩10分圏である。志功生誕120年の今年、ホールの『第九。』と記念館エリアを結んで祝賀イベントができたら最高だ。

 棟方志功の初孫で研究者の石井頼子さんの著書『棟方志功の眼』によれば、毎年大晦日にはステレオのある部屋に籠もって娘婿・・・つまり頼子さんのお父様と一緒にベートーベンの交響曲を全曲聞くのを志功は楽しみにしていたという。弥三郎節と第九を歌いながら板を彫ったり摺ったりする志功の姿は映像にも残っている。音楽と美術は互いにむすび合う世界だという志功は、「音楽といえばベートーベン」というほどだった。

 1963年にオープンした岡山県の倉敷国際ホテルのロビーには志功の大板壁画「大世界の柵・坤(こん)~人類から神々へ」があるが、この巨大壁画の女神たちの体には第九や情熱、皇帝など、ベートーベンの交響曲が流れているのだという。聴覚を失いながらも壮大な交響曲を次々生み出した西洋の作曲家と、弱視で晩年左目を失明した東洋の板画家との内には、国境を越えて響き合う美の世界と平和への祈りとが今も共鳴しているようだ。

 さて志功の緞帳といえば、1964年に開館した弘前市民会館のものが最初だろうか。「御鷹揚げの妃々達々(おんたかあげのひひたちたち)」という長い名の作品は、弘前城が別名「鷹揚城」というのにちなみ、金銀の鷹を囲み四季の妃たちが踊る。次が福島県いわき市の旧平市民会館「大平和の頌(だいへいわのしょう)」。福島の詩人草野心平との縁で依頼され、炭鉱や漁業など平市(現いわき市)の産業をモチーフに5人の女神が舞う。1974年には神奈川県民ホールの「宇宙讃・神奈雅和の柵(うちゅうさん・かながわのさく)」と八戸市公会堂の菊やウミネコ、南部手鞠が配された「大観自在頌の柵(だいかんじざいしょうのさく)」が制作されている。

 若い頃に仲間の画家たちと「狢(むじな)の会」をつくり、美術のみならず文学や演劇、音楽などを猛勉強した志功。彼が描く緞帳はあらゆる芸術や世界を鼓舞するエネルギーに満ちている。

 とはいえ、まさか県内三市の大舞台の緞帳すべてが棟方作品とは!ならば志功こそが芸術県青森のシンボル、「青森の顔」といっても言い過ぎではないだろう。


 5.閉館の真の理由は 

  青森県には世界に誇る三大記念館がある。青森市の棟方志功記念館(1974年)、三沢の寺山修司記念館(1996年)、そして五所川原の太宰治記念館「斜陽館」(1998年)だ。「斜陽館」は建物は古いが、記念館という名称がついたのは25年前からだ。この3つの記念館の異才たちはジャンルや国境を越えて作品を生み、県外に熱烈なファンを持ち、没後なお活躍し続ける「青森の顔」だ。 

 だが棟方記念館は来年3月31日で閉館する。HPにはコロナによる入館者減少と、建物の老朽化とバリアフリー設備不対応の3つの理由が挙げられている。

 コロナ禍では全国の博物館や美術館が苦境に立たされた。そんな中、寺山記念館はオンラインイベントやVR展示、参加型イベントやフェスなどを果敢に展開して、今年没後四十年を迎えようとしている。斜陽館は向かいの物産館「マディーニ」が閉まったが、代わりに「産直メロス」や近所にカフェ「メーロ」がオープンした。太宰治疎開の家や奥津軽を愛する会がオンラインイベントをしたり、太宰の飲んだリンゴ酒が再現されたり、エリア全体で新ステージへと挑戦している。一方この間、棟方記念館はどんな挑戦をしたのだろう。 

 建物の老朽化とは長年愛されてきた証だ。折々に修理して後世に残すほど建物の歴史と価値が生まれる。しかも棟方記念館は数年前も数千万円かけて屋根を修理したばかりだ。バリアフリーなら「斜陽館」も満足ではない。富山県の棟方志功記念館愛染苑もだ。でも運営側が建物の古さを誇りに思い、それを大切に維持管理しながら、移動に不自由のある方にはスタッフが手を貸すなどの対応をしている。

 さて閉館後、棟方記念館の全作品は青森県立美術館(以下県美)が管理する。それはいい。でも「一般財団法人 棟方志功記念館」は解散しないという。すでに棟方記念館の事務所は2006年の県美開館の時から県美の中に移されていた。以来、財団の学芸員は主に県美にいて、県美の窓口業務はなぜか棟方記念館の委託事業になっている。とても不思議だ。17年前に財団は県美とどんな約束をしたのだろう。まるで最初から松原の記念館閉館を考えていたようにさえ見える。

 そんなことはないと信じたい。そもそも財団はあの棟方志功記念館を設置、運営していくためにつくられたはず。当初は展示物がほとんどなく、市民や県民の好意で作品が寄付されたり、鎌倉の棟方志功板画館から作品を借り、苦労して展示を続けた。それでもあの建物自体が市民と県民の誇りだったのだ。

 本格的な棟方研究は石井頼子さんたちの手で近年ようやく始まったばかり。ゴッホや北斎が没後に年々輝きを増すように「世界の棟方」も時を経てどんどん価値を増すはずだ。そう信じた48年前の青森の先人たちは「記念館」を棟方の生誕地から徒歩圏内につくってくれた。大切なのはその庭を彩る青森の四季の植物である。それこそ棟方の美への入口だからだ。草木の美やねぶた絵に始まり、山河や生物、縄文や歴史、文学や民謡まで、青森のすべてを志功は生涯かけて描き、刻んでくれた。そこに青森の過去と未来がある。棟方志功記念館こそ次世代に伝えるべき大切な青森プライドのひとつのはずだ。

 現在の財団の責任者の方々はいったい棟方作品と記念館をどのように愛し、どんな未来を思い描いてきたのか。閉館の真の理由が知りたい。水面下で閉館準備を進めていたようだが、なぜ市民や県民や賛助会員、全国の棟方ファンに苦境を知らせ相談しなかったのだろう。調べるほど謎は深まるが、大事なのはこれからだ。棟方志功記念館の未来を考えてどう行動するか。それが棟方生誕120年の今年、青森にとって最大の課題かもしれない。


※以上は、月刊「ういむい」第5〜9号に連載されたものを、関係者の許可を得て転載したものである。転載をご快諾下さり、深謝です。