主に青森市の古写真(絵葉書)や地図などを展示している、青森まちかど歴史の庵「奏海(かなみ)」の公式ホームページです。
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伝えたい記憶

【伝えたい記憶】第20回 戦争「古川跨線橋から浪打小学校が見えた(棟方精子さんの話)」

私は女学生で、大湊に勤労奉仕隊でも行ったことがあるから、その当時の事はよく覚えていますよ。 あの青森空襲の日は、空襲警報が鳴ってB-29が焼夷弾を落としてから、青森から平舘まで35キロ、家族皆で夜通し歩いて逃げましたよ。 …

【伝えたい記憶】第19回 戦争「避難中、家族と逸れた男の子(西田トシさんの話)」

青森空襲の時私は3歳でしたが、防空壕の中で干したウドンを食べさせられた記憶がありますよ。私が防空壕の中で「腹減った。」と泣かないように、母はそれを持って避難したそうですよ。先ずは子供の事を一番に考えたそうだよ。 私の夫は …

【伝えたい記憶】第18回 戦争「空襲後の青森市古川近辺(石村和子さんの話)」

当時小学校2年生で、浪岡町の母の実家に疎開をしておりましたが、昭和20(1945)年7月28日に青森に帰る汽車が満員で乗れなかったのが幸いをして青森空襲をまぬがれました。でも、疎開先が浪岡の山側だったので、青森の焼けるの …

【伝えたい記憶】第17回 戦争「浪館地区の空襲(Tさんの話)」

小学校2年生の時に樺太から引き揚げて来て、家族で青森市古川に住んでいました。それから1年後に空襲に合ったのですが、今考えると、B-29が来てから逃げたので助かったのだと思いますよ。 何故かと思うでしょうが、B-29が来る …

【伝えたい記憶】第16回 戦争「爆撃された野内の石油備蓄基地」

空襲警報が村中に鳴り響き、一家で持ち山に避難しようとしている時、三男だけが、腰に木刀と出刃包丁を差して動こうとしない。いくら長男が殴ったり引っ張ったりしても、家を守るんだと言って、居間の板敷きの床に犬の字に寝てしまったの …

【伝えたい記憶】第15回 戦争「何日も燃えた野内の海(Kさんの話)」

戦争当時はまだ小学生で、青森市三内沢部に住んでいたのですが、戦争だと聞いてもピンと来ていなかった。 ある日外で遊んでいたら、飛行機が何機も編隊で飛んできたので、子供達がそれに向かって「万歳!万歳!」って叫んで手を振ったの …

【伝えたい記憶】第14回 戦争「莨町小学校近くの防空壕(Fさんの話)」

小学生だったので、青森空襲の2日前まで一家で青森市郊外の八重田矢作に疎開していたのですが、突然青森に帰る事になって青森空襲に遭ってしまったのさ。 当時塩町で小さいけども下宿屋をしていましたので、その人達と一緒に逃げた逃げ …

【伝えたい記憶】第13回 戦争「袰月海岸に泳いで来た、油まみれの兵隊たち」

私は昭和8年生まれだから、昭和20年の戦争の時は小学校の上級生でした。その当時北海道が見える津軽半島先端近くの袰月にいましたので、毎日海を見て生活していました。 夏だったと思いますが、ある日沖を行く船が小さい飛行機に爆弾 …

【伝えたい記憶】第12回 戦争「野内村も爆撃された」

母の実家のある野内村は、石油の備蓄基地として、戦前から石油タンクが何基も建っており、外国人の家族も往んでいて、日曜日になると、外国の婦人などが白い馬に乗って村中を散歩したり、子供たちを遊ばせたりして、いたって平和な村だっ …

【伝えたい記憶】第11回 戦争「空襲で死んだはずの息子が(Yさんの話)」

私は戦後生まれなので、母から聞いた青森空襲の話ですが、当時私の家族は少し郊外に住んでいたそうです。兄は6~7歳、姉は3~4歳だったそうですが、兄はもう一人であちらこちらに遊びに行っていたそうです。 空襲当日は青森の友達の …

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