私の出生場所が今住んでいる所とは違った、広田神社近くの青森市長島八十三番地であることを知ったのは、昭和28(1953)年のことでした。学制改革により新制高校一年生に入学するために、戸籍抄本を入手した54年前のことです。

 その場所を確かめるため戦前の地図を広げると、眼下には青森の首府(青森県庁舎)と官選知事公舎が並び、国道4号を挟んでいました。国道というものの、バスが左右1台で交差するだけの道幅よりなかったのです。遊び場は戦時中とあって、現代のように整備された公園はありませんでした。また学校の校庭で遊ぶことは、考えられない世相でもありました。幸いにも、家から徒歩2、3分の所の広田神社(地図上では、八十五番地となっていました)には、遊ぶにはもってこいの広い境内がありました。その境内には現在のような南北道路は、なかったように記憶しています(図1)。

 青森市は太平洋戦争後の焼け野原の中、戦後復興整備に取り掛かりました。戦前は往復2車線だったものが、片側2車線で、両側4車線になり、歩道も左右2道で、現在の国道4号が出来上がりました。広田神社は裁判所の正面に鎮座し、今は道路を挟んで境内が左右に別れています。南北道路を挟んで相対する、大正15(1926)年に建立された一対の狛犬がそれを物語ってくれます。

 この南北道路は、道路部局が裁判所北側道路と国道4号南側を直線道路でつなぐ計画を立案した際、広田神社が協力したことから完成しました(写真1)。一方裁判所側は、計画通りだと敷地が東西に二分され、しかも拘置所までなくなってしまい承諾しかねるということで、裁判所内の分断道路建設は見送られました。このように、当たり前のように存在している道路は、調べてみると先人達の努力や協力があってできていることがよくわかります。(建工法師)

※このコーナーは、2021年11月から月刊「エー・クラス」青森(青森市内全戸配布フリーペーパー 約14万部)に連載を依頼され、当該雑誌が継続する限り続けるものです。青森市以外の皆様にも、閲覧できるようHPでご紹介します。

図1ー広田神社付近地図(昭和6年)
写真1ー南北道路の現状(2022年1月撮影)正面は裁判所

※このコーナーは、2021年11月から月刊「エー・クラス」青森(青森市内全戸配布フリーペーパー 約14万部)に連載を依頼され、当該雑誌が継続する限り続けるものです。青森市以外の皆様にも、閲覧できるようHPでご紹介します。