主に青森市の古写真(絵葉書)や地図などを展示している、青森まちかど歴史の庵「奏海(かなみ)」の公式ホームページです。

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【あおもりなつかし写真帖】第14回 「若き寺山がいた時代」

上の写真は、昭和28(1953)年に撮影された旧青森駅前の様子です。「帰国者 歓迎」の看板と、駅前に止まる3台の三輪自転車タクシー、別名「輪タク」が目を引きます。「輪タク」は、写真が撮られた頃には、ほとんど姿を消したと言 …

【伝えたい記憶】第19回 戦争「避難中、家族と逸れた男の子(西田トシさんの話)」

青森空襲の時私は3歳でしたが、防空壕の中で干したウドンを食べさせられた記憶がありますよ。私が防空壕の中で「腹減った。」と泣かないように、母はそれを持って避難したそうですよ。先ずは子供の事を一番に考えたそうだよ。 私の夫は …

【タイムトラベルあおもり】08.青森空襲を親子三代で語り継ぐ

青森市が昨年7月に実施した調査によると、昭和20(1945)年7月28日の青森空襲について、「日にちも内容も知らない」という青森市民が約4割にのぼることがわかりました。「青森空襲を記録する会」の会員でもある私には、衝撃的 …

【伝えたい記憶】第18回 戦争「空襲後の青森市古川近辺(石村和子さんの話)」

当時小学校2年生で、浪岡町の母の実家に疎開をしておりましたが、昭和20(1945)年7月28日に青森に帰る汽車が満員で乗れなかったのが幸いをして青森空襲をまぬがれました。でも、疎開先が浪岡の山側だったので、青森の焼けるの …

【伝えたい記憶】第17回 戦争「浪館地区の空襲(Tさんの話)」

小学校2年生の時に樺太から引き揚げて来て、家族で青森市古川に住んでいました。それから1年後に空襲に合ったのですが、今考えると、B-29が来てから逃げたので助かったのだと思いますよ。 何故かと思うでしょうが、B-29が来る …

【伝えたい記憶】第16回 戦争「爆撃された野内の石油備蓄基地」

空襲警報が村中に鳴り響き、一家で持ち山に避難しようとしている時、三男だけが、腰に木刀と出刃包丁を差して動こうとしない。いくら長男が殴ったり引っ張ったりしても、家を守るんだと言って、居間の板敷きの床に犬の字に寝てしまったの …

【あおもりなつかし写真帖】第13回 「喫茶店のマッチラベル」

マッチラベル帳が回覧されたのは、5月定例会でした。マッチ箱から女性らしい細やかさで丁寧に剥がされ、60余枚それぞれに思い出が書き添えられています。この中の一枚に、青森市上新町の北谷書店2階にあった喫茶店「ラスキン」のマッ …

【伝えたい記憶】第15回 戦争「何日も燃えた野内の海(Kさんの話)」

戦争当時はまだ小学生で、青森市三内沢部に住んでいたのですが、戦争だと聞いてもピンと来ていなかった。 ある日外で遊んでいたら、飛行機が何機も編隊で飛んできたので、子供達がそれに向かって「万歳!万歳!」って叫んで手を振ったの …

【タイムトラベルあおもり】07.戦前の希少建築物が消え行く青森市

日本銀行青森支店が開設されたのは昭和21(1946)年11月1日。場所は青森市大町(現在の本町)でした。最初、米町にあった日本勧業銀行青森支店内に、昭和20年5月に青森駐在員事務所を開設し、戦後の混乱のなか青森県内の官民 …

【伝えたい記憶】第14回 戦争「莨町小学校近くの防空壕(Fさんの話)」

小学生だったので、青森空襲の2日前まで一家で青森市郊外の八重田矢作に疎開していたのですが、突然青森に帰る事になって青森空襲に遭ってしまったのさ。 当時塩町で小さいけども下宿屋をしていましたので、その人達と一緒に逃げた逃げ …

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