1,人類が火を手にしたのは?
ヒトが火を使った証拠が確実に残っている世界最古のものは、イスラエルのべノット・ヤーコヴ橋の河岸にあるゲャー遺跡で、焼けたオリーブ、大麦、ブドウの種や木、火打ち石が残されており、ホモ・エレクトスかホモ・エルガステルが79万から69万年前に火を使った確実な証拠とされ、これが世界最古のものとされている。
火は調理や暖房、灯りや敵から身を護ることに使われ、ヒトが集団生活を行い、寒冷地に住み、夜間活動も可能となり生き延び事ができた。
ヒトが最初に火を手に入れたのは野火などからであり、その後、自らの手で火を起こし始めたのが約2万5千年前と言われています。
2,灯りの歴史
ヒトが他の動物と異なるのは「言葉」を話すことと、「火」を使うことであり、ヒトの進化をもたらしました。
火は、「暖かさ(熱)」と、夜の闇を照らす「明るさ(光)」を与えてくれ、自分たちで火を起こしことが出来なかった人びとは、火を絶やさぬよう集団生活をして守り続けました。
灯りはの最初は木による焚き火、たいまつから始まり、動植物の油や松ヤニ、ろうそく、そして、石油やガスが使われ、電気となり灯りだけではなく、動力源として産業の発展に大きく貢献しています。
3,電気の発見と歴史
紀元前600年にギリシャの哲学者・ターレスは、琥珀を布でこすると、糸くずなどの軽いものが吸い寄せられることを発見しました。この弱電気は「摩擦電気」の一つで、人間が初めて発見した電気と言われ、当時、琥珀は「エレクトン」と呼ばれていたので、英語の「電気」の語源になりました。
1752年アメリカの科学者・フランクリンは、雷の中で凧を上げ雷が電気で出来ていることを証明しました。
1831年イギリスの物理学者・科学者のファラデーは、コイル(ぐるぐる巻いた電線)のそばで磁石を動かすと電気が発生することを発見しました。これは「電磁誘導」の法則いわれ、発電機やモーターなどに応用され、こうした大きな功績により「電気学の父」と呼ばれています。
1879年に世界的に知られるアメリカの発明家・エジソンが長時間使える「電球」を開発し、灯りの新時代を開きました。
4,日本の電気の歴史
日本では江戸時代に電気の研究者として「電気学の祖」といわれる蘭学者の橋本宗吉や平賀源内がいますが、電気の明かりが登場したのは、1878年(明治11年)3月25日で、東京虎ノ門の工部大学校(現在の東京大学工学部)のホールで、設置されたアーク灯が点灯しました。日本で最初に電灯がともった日で、現在、3月25日は「電気記念日」となっています。
東北では、1888年(明治21年)7月1日に宮城県仙台市青葉区三居沢の宮城紡績会社工場で電灯が点灯したのが最初です。
5,青森市での電気の誕生
青森県内では、青森市では、1896年(明治29年)3月26日に資本金3万円で青森電燈株式会社が設立され、1897年(明治30年)1月24日に、会社前に設置された1,200燭光のアーク灯が点灯しました。
それまで、ランプやロウソクの明かりしか知らない人びとにとって驚きと感動の瞬間でした。最初は、小規模な30キロワットの火力発電所で、わずか607灯の点灯しか出来なかったが、時代の要請で電灯とともに動力としての需要が拡大し、資本金も20万円~350万円と増資し火力から水力へ切り替え、水力発電所の建設を行った。
6,県営移管と戦時体制
戦後は東北電力へ一方、県内各地に電力会社がつくられ、電気の普及が始まったが、多額の投資を必要とするため、農村部を中心に採算の取れない地区は、電気の恩恵から除外された。
また、昭和金融恐慌の影響で県経済も混乱したなか、電気の公営化が全国的に叫ばれ、1933年(昭和9年)4月1日に県営電気局が6,495千円で買収し発足した。 この発足にあたり、当時の青森市は市営を目指して国に働きかけるなど、血みどろの闘争を行った。
県営電気局発足から7年後、日華事変以後の戦時体制強化の中、国家総動員体制下で1941年(昭和16年)8月30日に配電統制令を公布し、全国を9区に分割した配電特殊会社を設立し、青森県営電気局は翌年4月1日に東北配電株式会社に統合され青森支店となった。
戦後、1946年(昭和21年)9月に配電統制令は廃止され、一般商事会社となったが、ポツダム政令電気事業再編成令及び公益事業令により、1951年(昭和26年)東北電力株式会社が設立され、青森支店が誕生し今日に至っています。
このように 青森電燈→青森県電気局→東北配電→東北電力と変わった。
7,戦後、電気の恩恵から取り残された人びと
発電により、明かりと動力を手にした事により、生活と生産活動には大きな貢献をしたが、この恩恵を受けることが出来なかった人びとが戦後も続いた。
敗戦により海外から引き上げ者や戦災者、復員軍人などの人口収容と食糧確保を目的に、行われた緊急開拓であった。
青森県では延べ入植戸数は7,500戸で、定着したのは約4,000戸言われています。
入植者の多くは、立地条件、気象条件等に恵まれず、想像を絶する努力と苦難の道をたどりました。
その一つに、電気がなく灯りも動力も使えなかったことです。
青森電燈株式会社の歴史
年 月 日 | 事 業 内 容 | 説 明 |
1890年(明治23年秋 | 電気事業起業が柿崎町長へ五連隊村上大尉から持ち込まれる。 | |
1890年(明治23年 | 柿崎町長が、資産家大坂金助に相談する。 | |
1893年(明治26年) | 弘前の今村八五郎等が青森での電燈会社出願を提出。 | |
1893年(明治26年) | ||
1895年(明治28年)4月15日 | 大坂金助等は、県から青森電燈株式会社設立許可を得る。 | |
1896年(明治29年)3月26日 | 国の設立免許許可を得て、会社の登記を終了する。 | 資本金3万円 |
1897年(明治30年)1月21日 | 30kwの火力発電所が竣工した。アーク灯が点灯。 | |
1897年(明治30年)3月10日 | 中村座(後の歌舞伎座)で盛大な開業式を行う。 | |
1901年(明治34年)1月 | 雪中行軍遭難事件 | |
1904年(明治37年)10月 日 | 下松沢水力発電所が完成。工費13万余円 | 資本金20万円 |
1908年(明治41年)1月 | 同に450馬力発電機増設。 | 明治39年30万円 |
1909年(明治42年1月25日 | 上松沢水力発電所計画株主臨時総会で承認。 | |
1910年(明治43年)5月3 日 | 青森大火により5万円余の損失 | |
1911年(大正元年) | 青森電燈の電気鉄道兼営とガス事業不許可 | 大正2年85万円 |
1912年(大正2年)7月7日 | 上松沢水力発電所工事に着手 工費55万円 | |
1914年(大正3年)4月15日 | 大不動水力発電所竣工 | |
1914年(大正3年)6月 日 | 「大正の水路事件」鳴沢鉱山の鉱区問題発生 | |
1915年(大正4年)8月15日 | 寒水沢水力発電所竣工 | |
1916年(大正5年)11月30日 | 上松沢水力発電所竣工 工費42万1千余円 工期3年 | |
1917年(大正6年)4月 | 藤田組と900kwの供給契約成立 | |
1917年(大正6年) | 東郡、南郡、西郡への送電の認可を得る。 | |
1917年(大正6年)11月 | 上松沢水力発電所に1200馬力発電機増設 | |
1918年(大正7年)10月下旬 | 上松沢水力発電所火災で全ての発電機焼失 | |
1919年(大正8年)3月 | 上松沢水力発電所全ての発電機修復 | 大正8年175万円 |
1921年(大正10年)9月 | 上松沢水力発電所3千kw発電機75万円で増設 | |
1922年11月 | 資本金増資 | 大正11年350万円 |
1931年(昭和6年) | 金輸出解禁断行で財界不安定な悲境時代 | |
1931年(昭和6年)11月 | 第59銀行行員の120万円費消事件突発。預金引き出しで、弘前銀行臨時休業。 | |
1931年(昭和6年)11月25日 | 本県銀行の親銀行で最古の歴史の第59銀行が臨時休業。この金融恐慌は全国に波及。県、市、銀行業者は財界救済に努力。政府等からの500万円の貸付、銀行重役の私財提供で12月16日。制限支払の下一斉開店。 | |
1934年(昭和9年)4月1日 | 青森電燈(6,495千円)、弘前電燈(7,360千円)、八戸水力(3,726千円)を計1,758万円で買収。この巨額の資金流入により、麻痺状態にあった本県銀行は完全に平常状態に戻った。
この県営に関し、青森市は市営を目指し、青森電燈会社と交渉を進め、県と市の政治問題化し、血みどろの闘争が行われた。しかし、昭和9年2月電気委員会で県営が決定した、 |
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1942年(昭和17年)4月1日 | 戦争の激化により国策により東北配電会社に統合。 | |
1946年(昭和21年)9月 | 敗戦により配電統制令廃止 | |
1951年(昭和26年)6月1日 | 東北配電会社から移管され、東北電力株式会社設立。 |