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開催にあたり

 今から120年前の明治35年(1902年)1月に起きた青森歩兵第5連隊雪中行軍遭難の悲劇は、199人もの凍死者を出し、陸軍省はその原因と責任を明らかにするため「遭難に関する取調委員会」を設置したが、遭難の原因は「天候の激変」とし、①小倉服(夏服)の着用②道案内人を同行しなかった点を指摘し、死亡した山口大隊長の責任とし、捜索活動の緩慢さで津川連隊長が謹慎処分を受けたのみで終わった。

当時、199名もの凍死者を出した大惨事だけに、新聞にも大々的に取り上げられ、国民の関心も高く、新聞は原因と責任を厳しく追及した。同じ時期弘前31連隊が、雪中行軍を成功させており、同じ第八師団内部で明暗を分けた形となった。

一方、陸軍内部での北清事変における「分捕り事件」「馬蹄銀事件」と新聞が書き立てた高級将校による戦利品略奪疑惑が騒がれていた。こうした当時の状況の中で、富国強兵・日露戦争必至という国策の中で、軍への信頼や基盤が揺らぐことを恐れ、①凍死者全員を戦死者同様とする②凍死者全員を官費で埋葬する③靖国神社へ合祀することなどを決めた。さらに、青森市民の熱心な救援活動や全国的に広がった義捐、陸軍内部での任意・強制による義捐活動が行われた。

明治36年(1903年)7月23日には、陸軍費を投じて墓地が整備され納骨が行われ、全国各師団将校の拠金で後藤伍長の巨大な銅像(大熊氏弘作)が建立された。「軍神」でもなく存命中の下士官が銅像となったのは異例中の異例で、当時の陸軍が事件の顕彰に腐心していたかを示している。また、全国から集まった国民の義援金総額は、202,585円44銭7厘(現在の40億円位?)の巨額ともなり、生存者と凍死者に交付された。しかし、その陰で雪中行軍に成功した弘前隊の偉業は報道されず、歴史の表舞台から消されていった。

このように、当時の政府は陸軍の責任を回避し、国民、将兵の義捐や死者への慰霊、遺家族への尉籍の念を巧みに利用して、「不祥事」を乗り切った。日露戦争を遂行する基礎は揺るがなかった。(新青森市史)

戦後、新田次郎氏の小説「八甲田死の彷徨」や映画「八甲田山」で、華々しく報じられて以来、様々な出版物が発行され、大惨事の原因と責任を明らかにする努力が続けられていることは、真実を明らかにするうえで必要なことです。戦争へと突き進むとき、政府の意図により真実が隠されたり捻じ曲げられては大変です。120年前の大惨事を振り返り、歴史の真実を明らかにすることは大切であり、情報がありましたらお知らせください。

展示風景1

展示風景2

展示風景3

展示風景4

展示風景5