幼年時代の筆者

幼年時代の筆者

残っている古写真を見ると、物心つかない時から、私は父と一緒に跳人としてねぶた祭りに参加していたようである。記憶にあるのは小学生低学年の頃だと思うが、ねぶた祭りの熱狂が今でも忘れられない。耳をつんざく太鼓の音、暗闇の中に映えるねぶたの光、道幅ぎりぎりのねぶたの大きさ、迫力、狂喜乱舞し奇声を発する跳人、酒の匂い、土砂降りの雨が降ろうが、そこいらで酔っ払いが喧嘩していようが、一向に鳴り止まない喧騒の中で垣間見た大人の世界、非日常の世界。幼かった私には衝撃的な出来事であり、その記憶が今でも私の心に深く刻まれている。

私の父親は旧日本電信電話公社(現NTT)に勤めていて、電信電話公社のねぶたの台上げが終わったあとの台座への布貼りや紅白の引手を作る担当をしていた。当時小学生の夏休みで暇だった私を、ねぶた団地(現リンクステーションの跡地)によく連れていってくれていた。そこで夏休みの宿題である図画を毎日描いているうちに、大人たちが汗水流して作るねぶたに魅了されていった。日々完成に近づいていく巨大なねぶたに、そこでも子供心に大人の世界を感じた。その当時、電信電話公社のねぶたを制作していたのが、現師匠である千葉作龍先生(第5代名人)である。当時若かった千葉先生のねぶた制作に真摯に向き合う姿に子供心にカッコよさを感じ、憧れた。

中学生の頃になると、ねぶた団地は現浦町小学校の場所になり、ねぶたの出来上がる過程をいち早く見たいと、居ても立っても居られず、夏休みの頃はほぼ毎日自転車をとばしていた。またその頃は子供ねぶたも桜川町会、福田町会など、あちこちで作られていて、よく子供ねぶたの小屋を覗きに行ったものである。筒井中学の文化祭でもねぶたの絵を描いた。その写真が今でも卒業アルバムに残っている。その頃、ねぶた小屋へ毎日来る「少年」として同じ千葉先生の小屋に出入りしていた内山さん(内山龍星先生)や大学生だった竹浪さん(竹浪比呂夫先生)、電気屋さん、他スタッフの皆さんに年下ということもあり、よく可愛がってもらっていた。蛇足であるが、当時竹浪さんは、私のことをよく「少年」と呼んでいた。その頃だと思うが、冬に千葉先生のねぶた絵の展覧会がカネ長(現さくらの)であり、母親と見に行った記憶がある。そこで千葉先生の経歴を見ることとなった。青森高校卒業と書かれてあった。当時勉学の方には全く興味がなかったが、千葉先生と同じ道を歩めば、単純にねぶた師になれるかもしれないという思いを抱くようになり、そこからは寝食忘れて勉学に励んだ。そして同高校に入学し、高校時代も同じようにねぶた小屋へ通い詰めていた。

もうその頃は本格的に色塗りや蝋描きもやらせてもらえるようになり、自分が手伝ったねぶたが完成に近づいていく様子を間近で感じ、ますますのめり込んでいった。高校生ともなるとこの先の進路について否が応でも考えなければならない時期となるが、ねぶたへの熱はおさまらず、ますます熱くなっていった。職業として認められるのであれば絶対ねぶた師になりたいと思うようになった。今でもそうであるが、どうしたらねぶた師になれるといったルートは確立されておらず、尚且つねぶた師になってもねぶた制作だけでは飯は食えない、貧乏する。と周りからは散々言われた。それを分かっている親はねぶた師を目指す息子に対して当然猛反対。今でこそ少しは理解してくれていると思うが当時は、一言いわゆる「ねぶた馬鹿」と呼ばれ聞く耳を持たなかった。その頃どうにも先が見えない私は自分なりの信念を持つに至った。「今目の前にあることを何事も一生懸命やることがねぶた師への道につながる」と思うようになった。というかそれしか術がなかったのである。高校でも勉学は怠らず、やれるだけのことはやったつもりである。高校卒業間近だったと思う。しつこくねぶた小屋へ通う私を千葉先生が弟子として正式に認めてくれた。

道が定まらないまま、大学へと進むが、ねぶたさへできれば、別にどこの大学でも良かったというのが本音である。ちょうど東京理科大学理学部物理学科の推薦が高校に来ていて、実は物理は一番自分の中では不得意科目であったが、十分な成績を満たしていたのでそこを推薦入学した。これも蛇足であるが推薦入試には面接と論文があり、論文はもちろんねぶた制作のことを書いたが、竹浪さんに助言、校正して頂いた。今でも感謝している。 大学時代は3月が春休み、7月が夏休みであったため、3月には送りの骨組み部分を、7月には色付け作業で帰省し、毎日ねぶたとともに充実した日々を送った。大学時代は東京都小平市にある青森県学生寮というところで暮らした。東京の大学に通う青森県出身の学生が集う寮であり、10月に開催する寮祭ではねぶたを運行し、近所の名物となった。今でも毎年継続されている寮祭の記事が新聞に載ると嬉しく思う。

大学4年間のモラトリアムの時間もあっという間に過ぎ、人生の進路の決断の時期であったが、ねぶた師への道は捨てきれず、青森で働けるところであれば、どこでも良いと思っていた。当時バブル時代でもあり、各企業からは引く手あまたであった。何社も受かったが、一番ねぶたに対して感触が良かった㈱富士通青森システムエンジニアリング(現富士通株式会社)に入社することとなった。2年位だろうか、新人研修で東京と千葉で生活をした。社会人ともなると、なかなかねぶたに携わることは難しかったが、社員寮では休日ねぶたの顔を作ったりして、結構寮長には変わり者として気に入られていたと思う。退寮時贈呈していったが、今でもあるのだろうか・・・。

新人研修を終え、晴れて青森勤務となり、仕事が終わってから、また土日を利用してねぶた制作を手伝った。その頃、もう内山さんが26歳でデビュー、竹浪さんが29歳でデビューを華々しく飾り、次は自分の番だと思っていた。何回かチャンスらしきものはあったが、ことごとくつぶれ、なかなかチャンスが巡って来なかった。青森勤務時代、会社の方は結構ねぶたを理解してくれて、仕事に融通をきかせてくれ私をよくバックアップしてくれた。感謝している。そうこうしているうちに、ここ10年位で私より若い人たちが次々とデビューを果たしていった、正直羨ましかったし、悔しくて眠れない日々もあった。どうしたらねぶた師になれるのだろう。この違いは何なのか。ずっと思い続けていた。2014年、仙台へ転勤となり、周りからはもう良い歳だし、ねぶた師への夢を諦めるよう言われていた。仙台勤務の仕事は青森勤務時代とは違い、なかなか大変であった。夜も遅く、へとへとになるまで働いた。しかし、毎日単身赴任のアパートに戻って思うことはねぶたのこと。経済的なことは置いといて、自分の人生の中で身を粉にして頑張るところがここではないのでは?(やっぱりねぶただと)と強く思うようになった。遠い地で改めてねぶた、青森のことを思うと、自分には拭いきれない、津軽の血、縄文の血、もつけとじょっぱりの精神が確かに宿っているのだと思うようになった。

2014年の秋、千葉先生から年齢的、体力的にきついので、千葉先生が制作している2台うちの1台をまわすことを告げられた。この時、ねぶた師デビューへの最後のチャンスだと千葉先生と私は共通の認識であった。経済面など色々と葛藤はあったが、このチャンスを逃すと絶対後悔すると思った。自分の人生、棺桶に足を突っ込むときに絶対後悔するだろうと思った。一般的な常識人であれば、定年まで働き、なんの心配のない余生を送るのであろうが、これまでの私の情熱が常識を上回ったのである。経済的なことはねぶたのためなら、出稼ぎでもバイトでも何でもする覚悟はできた。もう、心は自分のねぶたが作れるという思いで胸一杯であった。
2015年春、23年勤めた会社を退社し、その年は1年最後の修行ということで千葉先生のねぶたを手伝った。千葉先生からスポンサーに対しても、私の来年デビューに向けて根回しもして頂いた。あと僅か1年頑張れば自分のねぶたが作れるという思いであった。来年が本当に待ち遠しかった。

しかし、2016年晴れてねぶた師デビューと思っていたが、スポンサーの都合で結局デビューは見送られた。「自分はことごとく、ねぶた師になれない・・・、会社辞めて家族を巻き込んでもねぶた師になれない・・・、結局自分は不遇の一ねぶた愛好家で終わるのか・・・」と思った。家族には約束が違うとも言われ、再就職を迫られた。この年ほど人生の中で落ち込んだことはなかった。ショックだった。色んな人を巻き込んで、自分は一体何をやっているのだろう。ねぶたの神様はなんで自分には味方してくれないのか。手が届いた先に一瞬光が見えたのに、また暗闇のどん底に落とされた気持ちだった。

2017年正月間近、再度スポンサーである日本通運へ千葉先生から話をして頂いた。最初は首を縦には降ってくれなかった。スポンサーで金をかける方ともなれば、良いねぶたを作って貰いたいし、実績のない私よりも他の実績のあるねぶた師にお願いしたいというのが本音であっただろう。私を制作者とすることに半信半疑だったと思う。どう思ってくれたかは未だに聞けていないが、面接迄した。面接時これはしなかったが、なんとか作らせてくださいと土下座迄する覚悟でいた。やっぱり今年もまたねぶた師になれないのか・・・と思っていた。面接1週間後、千葉先生経由で(制作者として)決まったという連絡があった。後から聞くと私を学生時代から知ってくれていた日通OBの青森高校の先輩たちが結構プッシュしてくれたようである。決まった瞬間はあまり実感がなかった。道のりが長かった分、本当にねぶた師になれたのか実感が湧かなかった。それからは、正月返上し、雪降る中、自分のねぶた作りに励んだ。2017年3月頃ちらほらマスコミに取り上げられるようになり、本当に自分のねぶたが作れるのだという実感が湧いてきた。ねぶた作りにも熱が入り、弟子として認められてから30年の想いを形にしようと思った。5月自宅で作った部品をねぶた小屋へと運搬した。改めてあの大きなねぶたテント(小屋)に入ると一国一城の主になった。みんなと同じ土俵に立てるという実感が湧いてきた。

制作中の筆者

制作中の筆者

6月、7月とねぶた作業に打ち込んだ。おそらく他のねぶた師の方より夜遅くまで夜業はしたと思う。けれど、仙台勤務の時に比べれば自分にはなんの苦しみもなかったし、好きなことをしているのだし、寝泊りして自分の今年のねぶたと限られた時間をもっと共有したかったくらいである。順調に作業が進み、7月26日が完成したねぶたをスポンサーに引き渡す台上げの儀式であった。何分初めての経験でもあり、ねぶたの中の木が折れないでちゃんと持ち上がるのかという不安で一杯であったが、日通社員の方の協力により、台座へ高々と無事に上げられた。感動したし、鳥肌もんであった。みんながみんな喜んでくれた。30年の苦労は一瞬にして吹き飛んだ感無量の日であった。

日本通運  「斉天大聖孫悟空」

日本通運  「斉天大聖孫悟空」

今日は2017年8月3日(木)です。自宅にてこれを執筆しています。日通ねぶたとしては2017年度の運行初日です。私の一生に一度の初陣でもあります。期待を胸に一観衆として沿道に行きます。皆さんの喜ぶ顔を見て、自分が選択した道が間違っていなかったことを確かめに。

最後に。
あるメディアで取り上げて頂いた番組で私のことを、「Never too late to bloom (花を咲かすことに遅すぎることはない)」と紹介されていました。良い言葉だと思います。諦めず腐らず誰も見てくれていなくとも、信念をもって追いかければ、夢は絶対叶うということです。ねぶた師を目指す若者は結構いますが、人生の岐路にて挫折する人がほとんどです。ねぶたのみならず、夢を追いかけている人たちに今回の私のことで少しでも手本になれれば幸いです。夢は叶うと申し上げましたが、これで終わりではありません。まだまだ私も夢の途中です。スタートが切れただけです。これから先、何年ねぶた制作に携われるかわかりませんが、初心忘れず。ねぶたは一人では作れません。色々な人の協力のもと、手伝ってくれる方々、応援してくれる方々の感謝を忘れず、作り続けたいと思います。
そして、この情熱・魂が次世代へとつながっていくことができれば、本望です。

最後に一言。
「ねぶた馬鹿で結構。馬鹿になれる人生ほど素晴らしいことはない。
才能なんて誰しも最初から持っていない。
情熱を持って続けられることが才能である。」