ポスター

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118年前に、青森市山中を舞台に起こった悲惨な遭難事件「捜索」の知られざる真実を追いかけます。2020年2月4日(火)〜29日(土)、入場無料。

展示風景1

展示風景1

展示風景2

展示風景2

展示風景3

展示風景3

展示風景4

展示風景4

開催にあたり

 今から百十八年前の明治三十五年(1902年)一月に起きた青森歩兵第五連隊中行軍遭難の悲劇は、当時の富国強兵という国策の中で、国民世論を盛り上げるため悲劇の主人公として利用された感がします。

当時の新聞報道と、その後の陸軍発表との違いに、その状況を見ることができます。「雪中行軍遭難時期に、猟師二名が亡くなった」との話を耳にして、調査をはじめてこれまで知らなかった事実が、次々と明らかとなり疑問も拡大しました。

とくに、大規模な捜索が始められたのは、「全軍二百余の凍死」と発表され、五連隊挙げて「死体捜索」を行うためで、当時の新聞( 明治三十五年一月二十九日)は、後藤伍長の救出や神成大尉、及川伍長の死亡を報じた上で、次のように傳えています。

「確報は一昨日午後五時に至りて、聯隊に達するや津川聯隊長の憂慮一方ならず。聯隊の故参新兵を問わず、隊内の事務に差支へ る者のみを除き、其他全部をを挙げて屍体捜索に従事するに決し、…… 田茂木野を本部とし、幸畑より大瀧平に至る間各所に、都合十八ヶ所の小舎を設け・・・」

そして、天候の回復した一月二十八日及び一月二十九日は哨舎設置の資材輸送と建設に費やされ、一名の救助も遺体の発見もなされなかった。

明治三十五年七月に歩兵第五聯隊が発行した「遭難始末」によれば、一泊二日で出発した雪中行軍隊が帰営しないため、一月二十五日から救援隊が動き始めていた事になっているが、なぜ継続されなかったのか。

また、明治三十五年二月九日の新聞には、「猟夫二名の焼死」の記事が掲載されており、内容は「二月三日、捜索中の工兵第八大隊第二中隊と第一中隊百六十名が田代温泉に宿営したが、悪天候で閉じ込められ、食糧が乏しくなるため、宿泊していた猟夫四名に〇導を要請し、古兵七十名は猟夫二名を得導にして五日に帰還した。しかし、残った初年兵は六日も悪天候で帰還できなかったが、残っていた猟夫二名は、「家で年取り」を喰わねばならぬ」と言って帰えることになった。その際、葛畑大尉は猟夫二人に、「軍隊救援方」を依頼し、書簡を託した。

この猟夫二名( 横内村の石岡由吉、同由太郎の兄弟)は、悪天候のため捜索隊の雪杭中につくられた避難所内で死亡しているのが、七日に発見された。たまたま、捜索活動を巡視中の立見師団長が、この状況を聞き、軍隊の響導としての任務中の死亡とし、丁重な取り扱いを指示したという。

華々しく報じられた雪中行軍遭難事件の陰で、更に映画「八甲田山」で報じられた陰に、まだまだ、私たちが知らない、明らかにされていない真実があるのではないのか。

明治三十五年一月二十八日からの捜索活動は、遺体のすべてを発見し、同年五月二十八日に終了しました。今度とも、調査を続けたいと思いますので、情報がありましたらお知らせください。